| 32 |

 別れは突然来るものだ。
 唐突に大切なものを失うことが人生においてはある。
 それをオレはわかっているつもりだった。確かに知っていた。
 けれど、何度迎えても、それに慣れることはない。
 何度目であろうと。辛いものは、辛いのだ。


 弁護士が来た。丸い男だ。
 安斎さんの中では終わった事だと、もうオレは処理されたのだと、改めて思い知らされた。
 新たな部屋や、当面の生活費や、その他諸々。説明された全てを、オレはこの一年使った携帯電話と共に押し返した。
 外は新緑の季節なのに。黄金週間で日本中が賑やかなのに。世間から切り取られたように、オレの周りだけが静まり返っている。まるで、あの時の病室のようだ。薄いドア一枚隔てた廊下では、壁の向こうでは、騒がしいくらいに人の気配があるのに。命を終えた養父母が眠るベッドは、周囲と隔たりを作り静寂を生み出していた。
 オレも彼等のように死ぬのかもしれないと思いながら、ゆっくりと口を開く。吐き出す息と共に生気が抜けていく気がするのは、多分気のせいではない。
「何ひとつ持たずに来たんです。何も要りません」
「そう言うわけにはいきません」
「それでも、持っていく訳にはいかないんです」
「しかし、貴方にお渡しするのが私の役目ですから」
 受け取るのが貴方の役目だと言外に匂わせられたが、オレは首を横に振り、頭を下げる。
「オレの意思をあの人に知らせる役目も貴方にはあるはずです。だから、」
 お返しくださいと懇願する。
 持っていく訳は勿論、貰う訳にもいかない。
 渋々ながらにもオレの意志を汲み一切を持ち帰った弁護士が、初めて安斎さんと対面した時に同席していた男だと気付いたのは、本人が去って暫くたってからだ。あの時弁護士を同席させたのはこの時の為かと。初めからこの終幕を考えていたのかと思いあたっても、もう何も思わない。何も知らなかったのは、何も気付いていなかったのはオレだけったのだというだけの事だ。
「…………疲れた」
 何だかとても疲れたと、テーブルに突っ伏し目を閉じる。
 白名さんに解雇を告げられて、憤懣と虚脱を繰り返して残ったのは、この一年間の疲労だ。努力する事に夢中で、溜め込んでいたそれが一気にオレの中で存在を主張し始める。
 こんなにも頑張っていたのかと、この気だるさをそう思えたのなら良かったのだけど。この結果では、オレの奮闘に意味はあったのかさえ疑問で、虚しくなるばかりだ。白名さんは良くやったと言ったけれど、本当にそうであるのなら、こうはなっていないわけで。
 やはりこれもまた、自分の罪に対する罰でしかない。

 出て行かねばと思うが、腰は直ぐには上がらなかった。
 漸く立ち上がってもなおズルズルと、住み慣れた部屋を歩き、結局リビングのソファに落ち着いてしまう。
 思考が、定まらない。
「伊庭」
 いつの間に来たのか、振り返ると古椎さんが居た。
 もう誰にも会わないのだろうと思っていたので驚いたが、それを表現出来るほどもオレに勢いはなくて。どうして来たんだと思いつつも、聞きもせずに、呼びかけに対する返事もせずに、腰を下ろしたまま近付く古椎さんを見る。
 この一年、何度も目にしてきたのに、映像が頭に届くばかりだ。今までのように立ち上がろうだとは思わない。
 こんな風に思うオレが悪いのだろうけれど。オレの人生はもう、この人に触れ合っていないのだ。
「お前のものだ」
 拒絶する意識もうまれなくて、反射的に差し出されて物を受け取る。
 だけど。
「……何ですか、これ」
 古椎さんが渡してきた通帳には、ありえない桁の額が振り込まれていた。それを見て漸く、何を受け取ったのか悟る。
 凪いでいたのが嘘のように、一気に心が時化る。
「手切れ金なんて、要りません」
「今までの給料だ」
「給料…?」
 そんな話は聞いていない。オレは、罪を償う為に、己の行為の責任として、今まで仕えてきたのだ。強制されたのではない。自分でここを選んだのだ。だからこそ、今まで居続けたのだ。
 オレにとっては、仕事じゃなかった。生きる事そのものだった。ここが全てだった。
 それなのに。それさえも、この人達は消し去ろうというのか…?
 自分達の中からだけではなく、オレの中からもこの一年を無くすつもりか。
「…こんなもの、要りません」
「明日から必要になるだろう」
「それはオレのことであって、古椎さんには関係ないでしょう!」
「これは組長からだ」
「だったら、余計に…!」
 受け取れるわけがないと、古椎さんの手にそれを押し付けながら、俺は顰めた顔を俯けた。弁護士が持ち帰ってきたものを、安斎さんは今度はこの人に頼んだのか。それほどまでに、あの人はオレを清算したいのか…!
 泣きたくないし、涙なんて見せたくない。だけど、視界は勝手に弛み、喉が震える。
「オレは…、オレは、こんな事望んでない! 貴方だって言ったじゃないですか! 安斎さんの事を想って仕えろって!あの人を大切にしろって!」
「お前はそれに応えた。だから、これはお前のものだ」
「違う!違います! オレは確かに少しは、安斎さんの為にも、古椎さんや白名さんの役にも立てたのかもしれないけど、そんなのは結果論にしか過ぎない。オレが、オレ自身が、ここで生きようと思ったんです。生きる意味を与えてくれたのは、貴方達だ。豪華な食事も、服も、部屋も。物だけじゃなく、精神的な面でも。全てを与えて、俺を支えてくれたのは貴方達だ」
 だから、こんなところで放り出さず、最後まで飼い続けてくれと。そう言いそうになる口を根性で引き結び、俺は肩で息をつく。これが愚かなオレが招いた結果なのだとしたら、誰かを責める事は許されない。どんなに辛くても、許されない。
 だけど、それでも苦しくて。上手くつげない息のせいばかりではなく、現実に眩暈がするけれど。
「…だから、何も要りません。むしろ、オレが逆に払いたいくらいですよ」
 苦笑を零しながら顔を上げると、相変わらずな無表情がそこにあった。受け取られなかった通帳をテーブルに置きなおし、オレは深く頭を下げる。
「今まで、お世話になりました」
 ここを出たらもう、オレは生きていけない。再び生きていく意味を無くしたオレにはもう、次を捜し求める気力はうまれないだろう。きっと、一年前のようになる。
 そうわかっていても出て行かねばならない。そこに寂しさは全くないけれど。単純に、ここに居続けられない事が辛くて仕方がない。
 何がいけなかったのかなんていうものは、何もないのかもしれない。偽物にはいつか来る終わりが、今であるだけなのだろう。
 もう、何も考えたくはない。
 考えれば、苦しさばかりが浮かぶから。
「安斎さんにも、他の方にも、宜しくお伝え下さい」
 もう一度会いたいと思うが、それが許されないのは明らかで。古椎さんに頼むしかないオレは、腰を曲げたまま一度強く奥歯を噛み締めるだけで、全ての理不尽さを飲み込む。
 顔を上げれば、やっぱりそこにあるのは無表情で。出会った当初から変わらないそれに、オレは小さく笑い踵を返した。

 行く当てなんて、何処にもないが。
 それでも。出て行かねばならないのだ。

2008/05/19
| Novel | Title | Back | Next |