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 結論から言えば。
 オレは真っ当な日常を手に入れ、生きている。

 あの日、何も持たずあの部屋を出たオレには、本当に何ひとつなくて。気付けば一日が始まっていて、気付けば終わっていて。そんな数日を過ごしたオレは、いつかのように空腹を抱え、けれどもいつかのようにそれを満たそうとも思わなくて。
 ただ、生きている。そんな感じで時を流していたオレの前に、唐突にキクさんが現れた。
「探したんやで、ホンマにもう」
 アンタはアホやと言いつつも、強く抱きしめてくれたキクさんを突き放す事は出来ず。オレは連れられるまま、暫く過ごした事のある彼女の自宅へと転がり込んだ。古椎さんに別れを告げて、一週間ほど経った頃のことだ。
「こんな事やと思ったんよ。身ひとつで追い出すなんて、あいつらは最低や」
 一年前と同様に美味い食事をオレに与えながら、キクさんはそう言って怒った。しかし、それは違うとオレは箸を置き訂正を入れる。与えてくれようとしたのに、オレが受け取らずに来たのだと。彼らは悪くはないのだと。
 だが、オレの意見は、キクさんには届かず、鼻息で撃墜された。
「それもこれも含めて全て外道や言うてんのよ。現にアンタ、死にかけてたやないの」
 そう言われては、オレとしては何も言えない。散々安斎さんや古椎さんなどを貶した後、気が済んだのか静かにオレの食事の様子を眺めていたキクさんは、「ホンマに良かったわ」と涙まで流してくれた。
 だが、それとこれとは別で。
 ひと段落した後に再び、「やっぱ、我慢出来ひんわ。ひとこと言わな気がすまへん」と勢いよく立ち上がり、古椎さんに抗議しようと電話を取り上げるキクさんをオレは慌てて止めた。そんな事をされては、オレが何も持たず出てきた意味がない。そんな事をされても、もうあの場にオレの生きていく場所がない事は変わらない。
 頼むから止めてくれと、ここに居る事も知らせないでくれと、オレは必死で懇願した。これ以上迷惑はかけられないというオレに、迷惑なんてかけたらいいと、当然の主張だと、何をどう解釈したらそうなるのかわからないが譲らないキクさんを、オレはもう彼等に関わらずに生きたいのだと嘘をついて止めた。
「アンタがそう言うんなら、そうやね。情もなく捨てるような男らに、関わる事はないね」
 本当はそうではないのだが、誤解するキクさんに心で詫びながらも訂正せず、オレは「だから、本当にもういいんです」と苦笑して全てを終わらせた。上手く笑える自分が少し不思議だったが、勢いででも生きていくとの言葉を発した瞬間から、オレは生きようとしているのかもしれないと思うと、それも当然のような気がした。意識するよりも、本能が生きようと動いているのだろう。
 だから。
「この一年は濃厚で、オレにとっては一生にも匹敵するくらい、凄いものだった。だけどね、キクさん。オレにはその中に何年も何十年も居続けられるだけの強さはなかった。情けない話だけど。だから、これで良かったんだ。これが丁度良かったんだ。たった一年だけだけど、オレは沢山のものを手に入れたから。これからは、自分に似合った場所で生きていくよ」
 大事なものはもうここにあるからと胸に手を置き、それらしい言葉で全てを片付けられるのも、多分きっと生きようとする力があるからだろう。
 オレの言葉を聞いて、「ほなら、あいつらが捜しても、絶対アンタのことを教えてやらんことにする」と、逆の嫌がらせを考えたらしくキクさんは溜飲を下げた。彼らがオレを捜すようなことはないだろう。本当に終わったんだからと思っているオレは、矛先を変えたキクさんに捕まり、今後一切自分との交流は絶たないとの約束をさせられた。
 そんな訳で。
 その数日キクさんの家に世話になったオレは、彼女の住まいから少ししか離れていない場所で仕事を見つけ、職場から三駅離れた寮での暮らしを始めた。仕事は、都内に数店舗の飲食店と介護ホームを持っている会社の事務員だ。
 勤務中は事務所から出ることは殆どなく、休日中にも出歩く事は少ないので、あっちへこっちへと動き回っていた愛人時代と違い、オレの行動範囲は極端に狭くなった。だが、仮に広がったところで、暴力団幹部の愛人と低所得の一般人とでは、出入りする場所が全く違うので出会う心配など皆無なのだろう。
 それでも。キクさんの家に顔を出す時は、少し緊張した。もしかしたら、と思う心を捨てきれなかった。それが、会いたくないと思うのならばまだしも、その逆なのだから始末が悪い。だが、正式に愛人になってからは殆ど交流が持てなかった事を思えば、キクさんのいう自分は隠居だとの言葉は謙遜でも何でもないのだろう。
 そんな日々の中。三ヶ月の試験期間を満了せずに、本採用へと職場での立場が変わった頃。
 いつものように昼休憩に読んでいた新聞の隅に、数行の記事が載っているのにオレは気付いた。それは、安斎さんの組が解散したというものだった。きっと、大きな事件があったのならば載らなかっただろうくらいに、小さなものだ。だが、オレには衝撃だった。
 聞ける者はキクさんしかなく、当然として訊ねたが。彼女はただそういう時代なのだとだけ言った。
「アンタはもう、かかわらへんと決めたんやろ? もう忘れよし」
 真っ当な堅気さんには関係あらへんのやと諭す彼女に頷くしか出来ず、オレはその言葉に従い忘れようと思った。
 彼らがどうなったか、オレには知る由もないし。知ったところで、何も出来ない。キクさんが言うところの、彼らもまた堅気さんになったのならば、もしかしたらいつか会うかもしれないなと想像する程度しか、オレには思うことが出来ない。一年間の記憶以上のものを今更必要とするのは、確かに愚かな事だろう。
 だけど、忘れられるはずもなく。オレは何かあるたびに、いや、何もなくとも、彼等を思い出す。あの、自分の全てを傾けていた一年を思い出す。
 オレは、ダミーであったのかもしれないけれど、それは彼等の思惑なだけで。
 オレにとっては、全てが本物だった。
 彼等の優しさや温かさの裏に何があろうと、オレが受け取ったそれらは、オレにとっては偽りではなかった。そこには本当に、温もりがあったから。だから、あの一年は、嘘ではない。大切なものなのだ。
 忘れられるわけがないし、もう一度と望まずにいられるわけもない。
 だけど、どんなに切望しようとも。
 オレは今から抜けだそうとは思わない。あの頃へ戻る為の一歩を踏み出さないのが、彼等に対する誠意なのだと思う。
 追い出されるのだとの思いばかりが大きくて、まともな挨拶のひとつも出来なかったけれど。今なら、彼等が確かに背中を押していてくれていたのだとわかる。別れは唐突で辛いものであったけれど、乗り越えて思うのは、彼等がオレをここへ帰してくれたのだとの感謝だ。
 あの人達との一年がなければ、オレはこんな風に、ごく普通に生活なんてしていないだろう。それまでの生活を失い、次に与えられたのがあの場所だったから。オレは今、こうして生きていられるのだと思う。
 彼等には、感謝してもし足りないのに。何故、ありがとうのひとつも言えなかったのか。今からでも、言いたい。伝えたい。けれど、多分、会う事はもうないのだろう。
 あの別れが、それを示している。

 養父の三回忌も済み、秋が深まってもなお。オレは彼等を思うことを止められないでいる。
 あの部屋を出て、まだ半年。もう半年。
 こんな風に、オレはいつまでも指を折って数えるのだ。
 これからも続く、一人の時間を。

2008/05/21
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