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「おい、結城! 逃げるなっ!」
上司の面白くない声に、結城は後ろ姿を見せたまま、左手の荷物を上へと掲げ「配達に行ってきます」と言い部屋を出た。
帰る社員ばかりのエレベーターの乗り込む。1階に着く前で降りたのは結城だけであった。続いてエレベーターに乗る人達の中に知人を見つける。
「よう、もう帰るのかよ」
「ああ、結城は?」
「今日は居残りさせられるんだ、赤点とってな。…って、おい!」
並んでいた人に続き、エレベーターに乗り込んだ知人を引っ張り降ろし、「どうぞ、出して下さい」と結城は中の者に笑顔で促した。直ぐに扉は閉まり、小さな箱に閉じ込められた味気ない人々の顔が消える。
「おいおい、俺待ち合わせしているから急いでるのに…」
肩を竦めながら男は溜息を吐く。デートかと結城が問うと、「そんな色気のあるもんじゃないさ」と苦笑した。
「なら、いいじゃん、一回見送るくらい。俺なんてまだまだ帰れないんだぞ」
「ったく、何だよ。赤点って、一体どんなヘマをしたんだ、お前」
「それは冗談だ。単に予定外の仕事が回ってきただけだ」
「そりゃ、このご時世の中では羨ましい事で。っで、その忙しいお前が…ああ、配達か」
結城が持つ荷物を見て男は納得し、数度首を振った。
「うちの課の女達も、昼間に持って行っていたな」
あいつも大変だが、お前も大変だな。
少し呆れながらも、しみじみとそう言った男に、結城は笑って肩を竦めた。
「そうでもないさ」
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終業時刻を迎え、手をつけていた仕事は急ぎではないからと、帰り支度をしていた橋本の耳に「おっじゃまします〜」と開発部の扉をくぐってくる者の声が入った。それはふざけていると言った妙なアクセントのもので、声音もいつもと違ったが、その人物を見ずとも誰であるのかすぐにわかった。他の者達も登場した人物が誰なのか確認し、その妙な挨拶を納得したようで誰もそれについては触れない。
橋本が顔を上げると、予想通りの人物がそこにいた。だが、ちらりとその姿を目にした後、すぐに手元に視線を戻しパソコンの電源を切る操作をする。その間、相手がゆっくりと自分に近づいて来るのを橋本は感じた。
彼の何が違うのか、自分はよく、目にしなくともその存在を仕草を感じ取ることがある。匂いだというのか雰囲気だというのか、そんな彼の持つ何かに自分のレーザーは反応を示すのだろう。
橋本はその反応を示す先に再び視線を向けた。先程よりも近付いていたが、彼は足を止めていた。だが、視線に気づいたのか、同僚達にお疲れ様と挨拶を交わしていた顔をふとこちらへと向ける。
そして、彼はニヤリと笑い、口を開いた。
「橋本さん、お届けものです。ハンコください」
言葉と同時に、左手で下げていた荷物を軽く上げる。
その姿に橋本は軽く眉を寄せた。理由は色々あるが、まずは何より、三日ぶりに顔を合わせた恋人に向ける笑みではないだろう、だ。何か悪戯を考え付いた餓鬼のような唇を吊り上げるその笑いに疲れを覚える。
この男、結城が自分の恋人であるのは間違いない事だが、その位置関係を彼がどう解釈しているかまでは橋本にはわからない。そう、自分のことを本当に恋人と思っているのだろうか…。そんなことをふとした時に考えてしまうほど、結城の事はわからない。この恋人は、謎と言うよりも、理解不能な思考をもっているのだ。
数日振りに会ったのだから微笑みを向けて欲しい。その思いは橋本にとっては当然のものだが、結城にそれを求めるのは無理があるのかもしれないと、同時に思いさえする。そして、そんな感傷よりも、今目の前にはもっと大きなものが突きつけられようとしているのだ、それこそ、考え悩む時ではないのだろう。
いつもこの恋人と接する時、自分は色々な意味で余裕が持てなくなる。状況を判断しながらも、橋本はそんな事を思い付き、小さな溜息を吐いた。
「宅配業は大変だな」
掲げた荷物に目をとめた、結城の側にいた同僚が喉を鳴らした。結城が手に持つその荷物が何なのか、ここに居る誰もがすでに知っている。
「おお、大変だぜ。安部、変わってくれよ」
「やだね。男の沽券に関わる。俺はまだ自分を捨てていないんだ」
「じゃあ、俺は一体何なんだよ」
「お前はそんなもの持っていないだろう?」
そう言って笑った安部の頭に、結城は何故か右手に持っていた小さなピコピコハンマーを軽く落とした。だが、それは見た目以上の威力があったらしい。安部が頭を抑え机に顔を伏せた。
「俺は人一倍プライドを持っているつもりだ、覚えとけ」
「――お前の場合、そのプライドは他人と違う働きをしてるんだよ、…自覚しろ」
顔を伏せたままくぐもった少し苦しげな声で安部が恨めしげにそうに言う。
橋本はフロッピーを引き出しに仕舞い鍵をかけながら、その二人のやり取りを眺めた。いつもの事だが、結城は誰とでも仲が良い。
「もう一度叩いてやろうか?」
安部の言葉に、低く笑いながら結城が右手を上げる。
「結構だっ!」
がばりと起き上がると、安部は結城から体を遠ざけようと椅子を少し動かした。
「ったく、何だよそれ。痛いっつーんだよ」
「あ。安部ちゃん、涙目になってるよ。大丈夫?」
結城が楽しそうに、今度は女のような喋りをし、首を傾げた。帰り支度をする周りの者達がその様子に笑いを漏らす。
「煩い。マジ、痛いんだぞ、それ。馬鹿になったらどうしてくれる」
「それ以上はならないだろう」
「俺はお前よりマシだ。大体、何でピコハンがそんなに硬いんだよ!」
「ああ、これ? これは、肩叩きだからな、硬くて当然だ」
未だ頭を擦る安部を見下ろしながら、結城はその右手に持つ物体で自分の肩を叩いた。
「これが気持ちいいのなんのって」
「…そんなもので人の頭を叩くな」
「他人の頭だから叩くんだろう、馬鹿だな、ホント」
痛いのに自分の頭なんて叩くかよ。そんな結城の言葉に、言い返すのではなく溜息を吐く安部を見ながら、橋本も同じように息を吐いた。
…じれったい。
結城の訪問が歓迎するものではないからだろうか、この間が妙に気まずい。まるで、苦しめと結城が計算して自分に試練を与えているような気がする。それは、被害妄想でしかないのだろうが、そう思ってしまうほど橋本の気分は刻一刻と重くなっていく。
頭を擦る安部を笑いながら、結城は漸く橋本のところまでやって来た。橋本が足元においていた紙袋を眺め、小さく笑う。
「持って帰るのが大変だな。モテる男は辛いね〜」
左手に持っていた荷物を机の上に置きながらニヤリと笑う結城の顔を見て、橋本は気づかれないようにゆっくりと長い息を吐いた。溜息が止まらないのも仕方がない。予想はしていたが、出来るなら迎えたくはなかった事態なのだ、これは。
今日は橋本の誕生日であった。
朝から同じ部の者に止まらず、幾人かの者からプレゼントを貰った。だが、結城のこの訪問は同じ目的でも、全く違うものなのだ。渡されるのは、結城からの贈り物ではなく、頼まれものなのだから。
断るのも悪いからと橋本は素直にこういったものを受け取るようにしている。旅行土産だとか、バレンタインだとか、誕生日だとか。そういったイベントは乗り気ではないが、それでも極力それ以上の意味を考えずに受け取るようにしている。本心を言えば、全て断りたい。だが、それは出来ないのだ。
受け取らなければ、相手は誰か第三者を通し、橋本が断れないように計算をして届くようになっている。それほどまでして渡したいと思うのか、単にその程度のものだが渡したいのか…いまいちよくはわからないが、これまでの経験上、結局はどこかを回って橋本の元に届くようになっているのだ。
そして、その仲介役の第三者は、今は大抵の場合、自分の恋人である結城である。橋本が溜息をつくのも仕方がないというもの。
結城は橋本の友人だという図が社内で出来上がっているのだから、それは当然のことであるものかもしれない。愛想のない自分と違い、気さくと言うか愛嬌のよすぎる結城がこういうことを頼まれやすいというのもわかる。だが、しかし…。
恋人から第三者の贈り物を受け取るというのは、全くもって厄介なことでしかない。だからこそ、橋本は結城にその役が回らないように、直接持ってきてもらおうと、断ることはしないという努力をしている。そうこれは努力だ。恋人がいるから遠慮してくれ、などという理由は彼女達に通じるものではなく無駄というもの。だから、ベストではないのだろうがこの方法を選んでいる。
それなのに…。
やはり、こうなってしまうのだ。
橋本は恨めしげに机に置かれた物を見、そして傍らに立つ結城に視線を向けた。見下ろす形で自分を見ていた恋人は、未だ口元に笑みを乗せている。
…これなのだ。
他の者達からの贈り物を受け取る恋人をなんとも思っていない。結城の顔はそういったものだった。いや、逆に楽しんでいるのだ。余計に始末が悪い。
イベントだからと納得し受け取る贈り物。それ以上のものにはきちんとそれなりの対応をしている。なので、これだけを見れば問題などどこにもなく、同僚に多少のからかいを受ける程度だ。誠意がないと言われれば正にその通りなのだろうが、自分の行動も間違ってはいないと橋本は思っている。そもそも、昔からこんな感じだったので、いつの間にかこうして物を貰うことの抵抗も薄れ、あまり悩む事もなくなった。
だが、別の問題が確実に目の前にあるのだ。
悪巧みをしている子供のような、無邪気ゆえの悪意のない嫌な笑いを浮かべた恋人…。
恋人である結城に他人からの贈り物を受け取るのは抵抗がある自分とは違い、結城は全く気にしていない。その事実が橋本の気を落とす。
「そっちの青い袋が、うちの課の三人娘からで、こっちの白いのが山口姉さんから。っで、このコンビニのお菓子つめ放題は、掃除のおばさん達から」
ほらっと手を伸ばし、コンビニの袋を開き中に入った物を見せる。そこには結城が言ったように、外装から出されたお菓子が沢山入っていた。
「お茶の時、お前の誕生日だと言ったらその辺のものを取って詰めてな。甘いものが苦手だって言ったから、ほら、オカキばかりだ」
おかげで俺のお茶請けが寂しかった。
机に凭れ、先程安部に一撃を加えた小さなハンマーで肩を叩きながら、結城はその肩を器用に竦めた。ピコピコとは言わないだろう、キュッキュッというのか何と言うのか表現出来ない間抜けな音が、細い肩を打つ度に上がる。
「…手間をかけさせたな。悪かった。言ってくれれば取りに行ったのに」
出来ることなら、結城にこれらのものを見てほしくはなかった。
普通逆ではないのか。好意を集める恋人に普通は相手が嫉妬をしたり不機嫌になったりするのだろう。なのに、どうだ。原因は自分だというのは十分承知しているが、理不尽にも怒りがこみ上げる。いや、情けなさか。何も思わない恋人が、悲しくて仕方がない。嫉妬をしろとまではいわないが、楽しそうに笑わないでほしい。全く気にしていない結城の姿は橋本には辛いものだった。
その感情を隠し、ここは会社だと勤めて冷静に謝罪の言葉を出した橋本に、結城は「別に気にするな」と笑った。その態度が気になる橋本には、そんな言葉すらやるせない。
「ちょうどいい気分転換、息抜きになったからな。実はまだ仕事があるんだよ。今はそれを口実に抜けてきた。だから逆に感謝だな」
今日は泊まりになるかもな。
嫌だなと、溜息を吐きながらそう言った結城は、吐き出した息を吸う変わりに欠伸をした。現実はどこまでも自分を苦しめるらしい。仕事だという結城以上に、橋本は心が重くなるのを感じた。一緒に過ごせる望みは、あっさりと消えてしまった。
「…そうか、大変だな」
「そう、大変だぜ。お前はもう終わり?」
「ああ」
「いいね〜。俺も帰りたいっつーの」
「…それ、うるさくないのか? 耳の側でそんな音」
会話中も止まることなく上がっていた間抜けな音に、橋本は深く考えずにそう問いかけた。沈んだ気分を変えたくて、話題を変えた。
ピコハンを想定してなら音が鳴るのもわかるが、肩を叩くのだ、耳元でのそれは雑音以外の何物でもないだろう。おかしなものを持っているな。そういう軽い気持ちで聞いた橋本だが、次の瞬間先程以上の嫌な結城の笑い顔に、それを後悔した。良くぞ聞いてくれましたと言わんばかりの結城のその表情は、非常にまずいことであるのが瞬時にわかる。
この顔をする時は、あの男の話題だ。
「いいだろう、これ。これな、鈴木に貰ったんだ」
ニヤリと笑う結城の口からは、橋本の予想に違わず、結城の後輩の名前が出た。
「前から目をつけていて、やっと手に入れたんだ。いや、嬉しいね。って、あ。大事なもので安部の頭叩いちゃったよ、畜生」
ぶつぶつ一人で何をそんなに嬉しそうにしているんだ。橋本の眉間に皺がよる。だが、そんなものは結城には何の効果もないものだった。
「聞いてくれよ、なあ」
そう言うと、橋本が返事を返す前に、結城は一人芝居をはじめた。ご丁寧なことに、口調まで真似て自分と鈴木とのやり取りを再現する。
「俺が今日はお前の誕生日だと教えるとさ……
『今日、橋本さんの誕生日なんですか。俺も何かしようかな』
いい、いい、しなくて。
『でも、折角ですし…』
何が折角なんだよ」
言葉に合わせ軽く顔を顰め演技までする結城には、もはや自分の姿など見えていないのだろう。思い出に浸りきっている。
恋人の笑顔とは嬉しくなるものだろうが、それが他の男によって作り出されたものとなれば腹立たしいことこの上なく、橋本の中にも醜い嫉妬が浮かぶ。けれども、あまりにもいつものこと過ぎて、それ以上に情けない感情でいっぱいにもなる。
「やらなくていいんだよ、他からも貰ってるんだろうしさ。
『あ。そういえば、アイちゃんと同じ誕生日なんですね』
ああ? そうなのか?
『え!? 先輩知らないんですか。新聞の一面にデカデカと載っていますよ、アイちゃん』
いや、俺、パンダに興味ないもん。
『…パンダって……人間ですよ。アイちゃん、知っていますよね?』
そうじゃなくてさ。パンダみたいじゃんってこと。珍しいからとちやほやされているけど、普通の赤ん坊だぜ。何の変哲もない、人間だ。
パンダもさ、日本に来た時ブームになったの知ってるだろう? 俺もさ、近くの動物園に来た時、親や兄貴に無理やり連れて行かれて見たんだが、どうってことはないんだよな。長い列並んで見たのは、昼寝で動かないパンダ。ぬいぐるみと変わらない、いや、実物は汚かったな、白じゃなく薄茶色っつーの。
っで、俺はそのとき悟ったんだよ、うん。
『…って、何を悟っているんですか、もう。パンダはともかく、あのお二人の子供ってだけですごいでしょう、アイちゃんは』
そうか? 男女の夫婦だ、子供が出来てもおかしくないだろう。騒ぐ心境が俺にはわからん。橋本の誕生日も同じ。なんであんな奴にきゃっきゃと女はプレゼントをやるんだか。
『かっこいいからでしょう、もてるんですよ、橋本さんは』
知ってるよ。けど、やる乙女心がわからん。
『誕生日だと聞いたら、男女に関係なくお祝いしたくなるものでしょう?』
そうか? お前もそうなの、鈴木?
『そうでしょう、普通』
ふ〜ん。じゃあさ、そのミニピコハンは?
『え? 橋本さんにこれですか?』
気持ちいいじゃん。
『でも、多分もうどこにも売っていませんよ』
それでいいんだよ。
『よくないでしょう、お古なんて』
いや、俺は嬉しい。
『…なんで、先輩が』
な、くれよ。
『…って、先輩が欲しいんですか?』
ああ、欲しい。お祝いしたいんだろう、俺を祝ってくれよ。
『訳わかんないですよ、先輩…』
いいじゃん、何でも。橋本にやるくらいなら、俺にくれ。
『橋本さんにあげるとも言ってないんですけど…』
いいじゃん、ケチケチするなよ。なあ、頂戴、鈴木。
『そんなに欲しいんですか?』
ああ、欲しい。
『じゃあ、また探してきます』
だから、それでいいの。っていうか、それがいいの。うだうだ言ってずに、渡せ、こらっ。
『…わかりましたよ、はい、どうぞ』
……ってな訳で、見事にこの手に入れる事が出来ましたっ!」
演説か何かのように、片手でガッツポーズをつくり、片手でその収得したものを掲げ、結城は「ありがとう、鈴木!」という言葉で話を終えた。
他の者との会話なら、他人の言葉を覚える人間ではないので、多少作った部分があるのだとわかる。だが、相手が鈴木の場合となると、結城は全てを完璧に覚えているのだろう。詰まる事もなく一気に言い切った恋人は、晴れ晴れとした表情をしていた。
そんな馬鹿としか言えない姿に慣れた周囲は、「良かったな〜」と橋本を刺激する言葉を結城にかける。それに答える結城は、少し照れたように笑いながらも、素直に頷く。…始末が悪い。
一体、ここをどこだと思っている。曲がりなりにも会社だぞ。そう思っているのは、この場では自分ひとりだろうということも橋本にはわかりすぎるほどわかっており、やはり溜息を吐くしかない。
「…そうか」
橋本としては間違っても「良かったな」などとは言えず、けれどもここで「いい加減にしろよ」と結城を非難するわけもいかず、ただそう呟くしかなかった。
「何だよ、愛想がないな〜」
軽く眉を寄せながら、「別にいいけどね」と再び肩を叩き、結城は呆れたように呟く。
お前がそれを言うな。心の内にある言葉は口には乗せず、橋本は変わりにまた溜息を吐く。それを見止めた結城は、軽く眉を上げた。
「なんだ、疲れているのか? なら、さっさと帰れよ」
疲れたように見えるのならば、それはこの恋人のせいだろう。しかし、本人がそれに気づく事はない。結城にすれば、単純に嬉しい出来事を恋人に語ったに過ぎないのだから、今の会話が橋本の疲れの原因などということは有りえないことなのだろう。自分の発言がおかしいなどと思っていない。
だが、結城と違い極々普通の自分は、目の前で恋人が他の人間に夢中になっている姿を見たならば、例えそこに恋愛感情がないとわかっていても、やきもきせずにはいられない。何より、理解出来ない思考の持ち主である恋人のことだ、いつコロリと後輩の男に転ぶとも限らないのだ。いくら本人が恋愛ではないと言い張っても、安心など出来るわけがない。
それほどまでに、余裕などなくなるほどに、自分はこの男に惚れているのだ。それを相手は、今ひとつわかっていない…。
「溜息ばかりついていると、幸せが逃げるんだとさ」
結城は、知っているか、と笑いながら言った。
「…また、年寄り臭い言葉を」
「煩い。今のお疲れモードのお前より、俺は若いぞ」
「…ああ、そうかよ。なら、仕事に戻れ」
「酷いな、息抜きに来た者に言う科白か。自分はあがりだからって、なんて薄情な奴」
だから、お前に言われたくない。薄情はどっちなんだ、恋人の前でのろけやがって。
橋本がそう疲れ以上に苛立ちを覚えた時、それを感知したかのようにピピピと近くで電子音があがった。結城の携帯だ。
「うわっ! 会社からじゃん。課長か?」
驚きながらも、スーツから取り出した携帯電話を耳に当て、「はい、結城です」と真面目な声で結城は通話を受けた。だが、それも一瞬の事で、相手に何を言われたのかハハハと笑いはじめる。
「いや、だって。笑いますよ、そんなこと言われたら」
通話口からは、相手の微かに怒りを含んだ声がもれ聞こえたが、結城は詫びれもせず肩を揺らしなおも笑った。
「…って、え? ちょっと待ってくださいよ。ええ、今は5階ですけど――そんな、途中下車しろと言うんですか。鈴木に行かせて下さいよ…。――はいはい、わかりました。今から行ってきますよ」
眉を顰め、拗ねた子供のような口調でそう言い、結城は通話を切り溜息をついた。
「今から経理によって帰ってこいだってさ。もう、5時過ぎたんだぜ、やばいって」
結城のその言葉に、橋本も「それは、災難だな」と同情を示した。終業時間を過ぎての仕事はどこの部署でも嫌われるものだが、経理となると相手が悪すぎるといったところだろう。嫌味の一つや二つなどというかんではなく、100や200は当たり前といった感じに貶されるのは必至の部署なのだ。
「ったく。俺この後仕事できるのかな〜」
肩を落としぼやく結城。だが、同情は示したが、この恋人が100や200の嫌味でどうにかなるかというのも疑問だ。
「ま、健闘を祈る。それより、何で笑っていたんだ」
「お前、他人事だと思ってあっさりと」
「他人事だろう」
わざと冷たくそう橋本は口にしたが、結城は大して気にしたようでもなく、笑いを含んだ声で「嫌な奴だ」と軽く肩を竦めた。
「えっと、何だったかな。ああ、課長が開口一番不吉な事を言ったんだ。
――何処に隠れているんだ、結城! 直ぐに戻ってこないなら、お前だけに仕事をさせるぞ!
…って、笑うしかないだろう。何の冗談を、てな。っで、結局直ぐに帰る事も出来ない、最悪の用事を言いつけられた」
これが目的だったんだよな、畜生。課長も相当お疲れだ。
結城は肩を竦め、そしてにやりと笑った。
「ま、やられたらやり返すけれどな」
仕事上のことで、しかも直接の上司に対してのその発想。危険と言うよりも子供のようなおかしすぎるもの。だが、これが結城なのだ。
「馬鹿言っていずに、行けよ」
「ああ、そうだな。配達も済ませたし、お仕事頑張りますか」
先程と同じように、肩たたきハンマーを持った右腕を伸ばし、左手をその肘にかけて結城はのびをした。シャツが引っ張られ、伸びやかな肢体が線を現したのを橋本は眺めた。
「うわぉ。背中ボキボキ鳴るよ」
腕を降ろし、今度は肩をまわしながら結城は楽しげに笑う。
「早く行けよ」
「ん、だってさ。行きたくないんだよな、経理だぜ、あの経理」
顔を顰める結城に、席を立った安部がコートを着ながら声をかけた。
「そう言えば、経理の曽根崎ってさ、泣き落としには弱いらしい」
「うそっ! マジ?」
「噂だよ、噂」
「ふ〜ん、でも、今なら演技でなくマジで泣けそう、俺。
…って、安部、お前もあがりかよ〜」
恨めしそうに言いながら、結城は橋本に軽く手を上げ、安部の元へと近づいた。
「お前と違い、昼間真面目に仕事をしているからな、俺は」
「煩い。なんだ、もう一度その頭を叩いてほしいのか?」
「冗談、俺を殺す気か。ほら、遊んでないで行けよ、経理」
「ったく、どいつもこいつも俺を邪険にあしらいやがって…」
「なんだ、寂しいのか。仕方がないな、そこまで付き合ってやるよ」
「経理まで?」
「エレベーターまで。俺は下。お前は上」
「ホント、すぐそこじゃん。ま、いいや」
口角を引き上げニヤッと笑うと、結城は安部の腕に自分の腕を組み入れた。
「強制的に連れて行こう」
「連れて行ってどうするんだよ…」
「さあ、生贄?」
「だから、何のだよ」
一体幾つのガキの会話なのか、と思うような言葉を交わしあいながら、結城は安部を引っ張り開発部を出て行った。
後に残るのは、まだ帰らずにいた数人の笑いと、橋本の渋顔だけであった。
2003/02/25