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「いい加減にしろっ!」
怒鳴り声にきょとんとして自分を見上げた結城の顔は、自分は何もしていないといった綺麗なものだった。真っ直ぐと、男にしては大きめの瞳が橋本を見つめる。それが余計に気に障った。いつもこうなのだ。自分に日があることに結城は気付かない。だが、それがいつも免罪符になるとも限らない。
気付けばテーブルを通り越し、抵抗する腕を掴み、橋本は結城を寝室のベッドの上に放り出していた。
「なっ、何なんだよ、お前っ!」
「煩いっ!」
直ぐに起き上がろうとした結城の上に圧し掛かる。
「煩いって、なんだ、――ちょっ、ちょっと…乗ってくるな、重い…」
「黙れっ!」
「なっ!? 黙っていられるかっ、馬鹿っ! いきなりキレてんじゃねーよ、橋本っ!!」
暴れる手を掴もうとすれば顔を叩かれ、押さえつけようとすれば、腹に蹴りが入る。そう本気で抵抗する恋人に、橋本も本気で掴みかかった。男二人の争いに、ベッドのスプリングが鳴り続ける。
「ふざけるなよ! 何が見たいだ、何がどうするだっ! お前はそんなに俺を苦しめたいのかよっ!」
「わ、わけのわかんない事を…」
「わからないのは、お前の方だっ!」
橋本は抵抗する結城を躍起になって押さえつけようとしながら、それまで心の中で渦巻いていたものを吐き出した。もう、自分自身が醜いとも惨めだとも考えている余裕などなく、ただ心の中のものを恋人にぶつけた。
好きな者に、他の者からの贈り物を貰って何が嬉しい。いや、惨めもいいところだ。全く気にしないお前が、堪らなく憎くなる。自分が情けなくなる。
自分だけがお前を必要としているようで、馬鹿みたいだ。お前はそんな俺を笑っているのか? わかっていてやっているのか、あんな事…。どれだけ俺がお前を好きなのか、わかっていて――
堪らない…。
喉からは、言葉を失った者のような、いや、死にかけた獣もような、虚しく悲しい呻き声が零れる。橋本は、捕らえた結城の腕を握る手に力を入れた。
「…痛っ」
恋人の顔が小さく歪む。けれども、それ以上に自分の心が痛い。
ただ一言で良かったのだ。
自分は決して、高価なものをねだったわけでも、特別な何かを欲しがったわけでもない。
ただ、祝いの言葉さえ貰えれば、それで充分だったのだ。それだけで良かったのだ。そこに特別な思いなどなくとも、自分の隣で笑い、そう言ってくれさえすれば、最高の贈り物となる。
それなのに。それすらも貰う事は出来ず、逆に恋人は自分の胸を切り裂く。
結城の両手を頭の上で押さえつけ、覆い被さるようにして両足も抑えきった頃には、橋本の息は上がっていた。そして、至近距離で自分を見上げてくる、結城の息も。
睨み合う視線は、ベッドの上だと言う事を感じさせないほどの、甘さの欠片もないものだった。もしこれが外での出来事なら、今にも殴りかからんばかりの橋本の気迫に、警察沙汰へと発展するほどのものだ。
もう、悲しくて辛くて、この心の中の渦が愛情なのか憎しみなのか、橋本にさえわからない。
「…結城、いい加減にしろよ……」
自分を見据える結城に、橋本は言葉を落とした。だが、しかし。いい加減にするのは自分の方なのかもしれない、そんな思いが同時に浮かぶ。自分が悪いとは思っていない。ただ、何かの限界が見えた気がしたのだ。こんな事をしても無意味なのかもしれない。
「…それは、お前の方だ」
押さえつけられた結城は、橋本の戸惑いを読んだかのようにそう言い睨み上げてきた。リビングの光のみの薄暗い部屋。自分の影となった恋人。けれども、その目はきらりと僅かな光を吸い取り輝いていた。
普段は悪戯をする子供のような瞳が、今は一人の大人の男でしかない強さを持っている。それは、怯みそうにも、心酔そうにもなる。視線は外せられず、飲み込まれそうになる。
橋本は無意識の内に、コクリと生唾を飲み込んだ。体に緊張が広がる。
だが、結城はその表情を、不意にいつものものに変えた。そして、クツクツと、はじめは小さく、けれども直ぐにそれを大きな笑いへと変えていった。
「…何が、おかしい」
声を上げて笑う結城に、橋本は眉を寄せた。
「…お前ってさ、いつも怒って俺を押し倒しているよな」
手、退けろよ。
笑いを抑えて言った結城の言葉を無視すると、小さな溜息が落ちた。視線を逸らし、押さえ込まれている姿を確認するかのように周りを見渡し、直ぐにまた戸惑う事もなく目を合わせてくる。
「怒った勢いがなければ、お前は俺を抱けないのか?」
「何を、言っているんだ…」
「もちろん、冗談だ。でもさ、こういう事がよくあると思ってな」
初めての時もそうだった。そう言い、また笑う。
どうしようも出来ない憤りは、結城に向かうしか静める方法がない。だが、それを相手は馬鹿にしたように笑う。この感情さえ、相手にはどうでもいい事なのだと橋本は思い知らされた。受け止める事はおろか、見止める事もないのだ、恋人は。
悲しいが故の暗い怒りが、心に湧き起こる。
「…お前が、いつも俺を怒らせるんだ」
いや、そうではない。これは程度の違いによるもので、仕方がないとさえ言えるものだ。ただ単に、互いを思う大きさが違うだけのこと。結城の思いに物足りないと思うのは、自分が悪いのだろ。そう、調教しているわけではない、心が常にある恋愛をしているのだ。こちらに向かない感情は、相手のせいではない…。
だが、そんな事はわかっていたとしても、今は認めたくはない。その考えが出来ても、自分にだけは当てはめたくない。それが、我が儘だとしてもだ。
欲しいのだ、どうしても。結城の全てが。そして、彼にもそう思って欲しい。自分を欲してほしい、同じように。
「俺が怒らせる? 責任転換だな」
笑みを浮かべたまま、押さえつけられた体を少し動かし、結城は肩を竦めた。
「…煩い」
「ま、そうかもしれない部分も、あるのかもしれないけどさ」
俺も、そう。お前が態々怒らせに来ているのかと思う時もあるからな。だから、確かに自分もそうしているのかもしれない、と結城は物分りが良い子供のように口にして笑った。
「基本的に俺達は、意思の疎通が巧くいかないみたいだな」
「……」
誰となら巧くいくんだ、と思うような思考の持ち主である結城に言われるのは何だか釈然としない。
自分と違い、楽しげに笑う結城は少し酔っているのかもしれないと、橋本はふと気付く。はっきりとした言葉とは裏腹に、結城の目は少し濡れ、目元が染まってきていた。
その目に見つめられ、男の悲しい性か、怒りを抱えつつも橋本はドキリと欲情した。笑いすぎという可能性もあるのだろうか、と心を逸らすために馬鹿なことさえ考えもする。だが…。
「っで、何で怒っているんだっけ?」
結城のしれっとした、それでいて残酷な言葉に、橋本のそのつきかけた炎はあっさりと消えた。自身でも醜いとさえ思えるほど吠えたというのに、相手には全く伝わっていない。それはもう、再び怒りを表す事は出来ないほど、惨めなものだった。
橋本は結城から体を離し、ベッドの端に腰を降ろして頭を抱えた。
「橋本、どうした?」
「…煩い」
「拗ねるなよ。だからさ、結局何に怒っているんだよ」
恋人にすれば、この絶望とも言えるほどの物を抱えている今の自分の姿も、単に拗ねている子供のようにしか映らないらしい。結城が自分の事をわからなさ過ぎるのは、今に始まったことではないが、それでも何故こうも思いは伝わらないのかと嘆かずにはいられない。
日本語云々の問題ではなく、結城が言うように、自分達は噛み合わないのだろう。根本的に合わないのだろう。だが、それでも。それでも、そうだからといって、匙を投げる事は出来ない。
未練がましいと思いながらも、橋本は言葉を紡いだ。
「…言っただろう、……醜い嫉妬だ」
「誰に?」
「…お前に」
「それがわからないんだよな。なんで?」
「…だから、お前が全く気にしないからだと言っているだろう。
もういい加減にしてくれ。充分にわかったよ、お前の考えは。俺が誰かとどうなっても良いって事だろうっ」
そう、俺の事などどうでもいいんだ。
橋本が立ち上がり振り返ると、体を起こしそのままベッドの上に座っていた結城は…怒っていた。頬を膨らませて、自分を睨んでいた。
「…何だよ、その目は」
「お前。本気で言っているのか?」
「……」
短い沈黙後、結城は橋本に手を伸ばしてきた。何をするのかとじっと見ていると、自分の手を強く掴む。怒りのためか、何なのか。その手は少し震えていた。
「何の――っ!」
…つもりだ、とは言えなかった。
突然ぐいっと力強く引かれ、橋本はベッドに片膝を付きかろうじて体勢が崩れる事を避けた。だが、結城が飛びついてくるのは、避けられなかった。
勢いに任せてのことだったので、結城はカツンと前歯を当てながら唇を重ねてきた。
「んっ…」
微かな痛みだったが、抗議の声を上げようとした橋本の口の中に、結城の舌が滑り込んでくる。数度軽く舌を絡め、結城は笑いながら唇を離した。
「…歯、痛かった?」
「いや…」
そう、と頷きながら、何故か橋本の首にしがみ付き、そのまま体重を預けベッドに倒れこまされる。
「おい、結城…」
自分は確かに怒っていた。けれど結城は笑っていた。それが辛くて、もういいと諦めると、結城は怒って……そしてまた笑っている。
いつものことだが、いつも以上にその感情の変化は橋本についていけず、キスをされた事すら、何の意味もない気紛れな思いつきのよう。…そう、キスをした。何故か、とても甘いキスを。だが、全く何がなんだかわからない。
橋本は擦り寄ってくる恋人の温もりを感じながらも、眉を寄せた。
「俺、お前が確信犯なのかと思った」
クスクス笑いながら、結城はわけのわからない事を言う。状況を理解出来ずに呆けかけた自分の事など気にせずに。
「わかっていてやっていたんじゃないのかよ」
ベッドに寝転がったまま、橋本の額に唇を落とし、結城は肩を揺らせた。今夜の中で一番楽しげな笑いを、恋人は落とす。
「……何のことだ」
「本当にわかっていないんだな? 俺をからかっているんじゃないんだな?」
体を起こしかけた橋本を再び引き寄せ、至近距離で見つめあい、結城は目を細めた。少し色素の薄い柔らかい髪が、橋本の額に触れる。
「俺は…お前がわからない。…何を考えているんだよ」
何かを確認してくる恋人だが、その何かがわからない。橋本が溜息交じりに呟いた言葉に、結城は「お前って鈍感だよな」と笑った。
「仕方がないな、教えてやるよ。俺もね、嫉妬している」
「……誰に」
一瞬聞き間違いかと思う言葉に、橋本は短い沈黙後に聞き返した。
「妥協して言っているんだ、一度で理解しろ」
「誰に、嫉妬しているんだ」
「お前にだよ。何でこんな鈍感男が、あんなにもモテるのか、畜生とね。同じ男ならそうだろう?」
「……」
「…なんて、それは一般論。確かに、お前にもしないこともないが…今日は違う。俺は彼女達に嫉妬してるんだ」
「…冗談だろう」
それは、自分が鈴木にするような嫉妬なのか。そう聞きたかったが、まさかと言う驚きが強く、橋本の口を閉ざさせた。だが、それは顔に出ていたのだろう、「ホントなんだよな、これが」と苦笑した。
「そこまで驚くなよ。ったく、気付けよな、バカ。自ら言うなんて、恥ずかしいじゃんかよ。
…俺はさ、お前が俺のこと平気みたいに言うのはさ、こうして恥ずかしい事を態々言わせたいのかと思った。だって普通ならこんなのわかることじゃん。…でも、お前はわかんないんだよな」
本当に鈍感だ、と結城は息を吐く。
「嫉妬しているからこそ、中に入っていくんだよ。だから、女々しく、お前が貰ったプレゼントをチェックするんじゃないか。俺の身になって考えろよ、わかることだろう。
モテるのも、プレゼントを貰うのも仕方がない、なんて俺は思わないんだよ。それほど他人に甘くない、人間も出来てない。どちらもいい加減にしろってもんだ。だけど、悲しいかな、俺はそれを止めるほどの力もない。何より、彼女達の行動力は凄いからな、太刀打ちなど出来ない。でも、傍観者で居られるほど、無関心にもなれない。
じゃあさ、その中にどうにかして入らないと、俺は蚊帳の外になるだろう。指を咥えて見ているしかない事になるだろう。お前はそういうの俺に教えないからな。モテる恋人を持ったからには、醜くてもそういう事をしないと、やっていけないだろう」
その辺のところを、お前はわかっていない。
凄い理論を一気に捲し立て、結城は真面目な顔をして言った。
「わかったか、橋本。普通はそうなんだ、嫉妬するものなんだ。割り込みたくなるものなんだ。覚えて置けよ。だから、俺を嫉妬させた時は、大人しく付き合え。嫌でもな。
第一、お前も見られたくないとか言うんだったら、俺に気付かれないようにしろ」
嘘はばれなきゃ嘘にはならないのと同じだな。知らなきゃ、馬鹿みたいに嫉妬もしないさ。
そう言って結城は自嘲気味に笑い、くるりと背中を見せた。
「…結城」
「煩い。ちょと、黙ってろ…」
再び態度を変え、不機嫌そうに言葉をつく。そんな結城の耳は真っ赤に染まっていた。
橋本が手を伸ばしそれに触れると、ピクリと肩を揺らせたが抵抗はしなかった。恋人の耳を触る指に、熱が生まれる。
結城の言葉は直ぐには信じられなかった。けれど、信じたい。信じられる。彼の今の態度は、言葉以上に橋本に語りかけていた。正に奇跡が起きたような気分だ。
怒り狂っていた心が嘘のように、まるでサッと霧が引くように、橋本の心が晴れていく。結城がそんな感情を持っていたなど、夢のようだ。自分に、そして彼女達に嫉妬していたなど。
「結城」
耳から肩へと、橋本は手を滑らせた。背中を見せる恋人をこちらに向けようと力を入れかけ、けれどもそれは相手により実行された。
がばりと勢いよく振り返り、結城は先程とは逆に、馬乗りするように橋本を押さえつけた。そして、大きな声で叫ぶ。
「畜生っ! 何か、滅茶苦茶恥ずかしいっ!!」
眉間に皺を寄せて橋本を見下ろす結城は、真っ赤に顔染めていた。
「笑うなっ!」
自然に顔が緩む橋本に、結城は更に睨みを効かせるが、それは逆効果だ。
「お前、やっぱ、わかっていて俺をからかうためにやったんだろう!?」
「まさか」
「だから、笑うなよ、畜生っ! ホント俺がバカみたいじゃないかっ!」
お前の性格が悪いのが原因なのにっ!
肩を押さえていた手が、橋本の胸倉を掴み数度揺さぶる。けれど、本気で恥しがり怒っている結城に、橋本はもう笑うしかない。幸せすぎて。
シャツを握り締める恋人の手に、橋本は手を重ねた。
「嬉しいんだ。嬉しすぎるんだよ、俺は。いいじゃないか、笑わせろよ」
「…嫌だ」
「結城」
微笑みながら恋人の背に手を伸ばす。
結城は更に眉間に皺を寄せたが、引き寄せる力に抵抗することなく、橋本の胸に体を預けた。胸に抱く恋人の髪を手ですくったり、キスを落としたりしていると、暫くして機嫌を直したのか、結城も橋本の体に腕を回してくる。
「……何が欲しい?」
「ん?」
「誕生日なんだろう」
「ああ…別に、いいよ」
「もう、貰ったのか…?」
あの中に欲しいものがあったのか、と胸の上で恋人は首を傾げた。
「いや、そうじゃない」
自分が一番欲しいものは、この腕の中のもの。けれど言葉にする事は少し恥ずかしく、言えば結城はまた照れて機嫌を悪くしそうで、橋本はただ小さく笑った。
結城の告白は、彼らしいものであったがひとつだけ訂正を入れたい。嫉妬していると言う彼女達よりも、結城自身ははかれないほど優位な立場にいるということを、物分りのあまり良くない頭に叩き込んで欲しい。何故か恋人は、これほどまでに惚れ込んでいるというのに、それを良く理解していない。
けれども、負けじと頑張る恋人の姿が可愛く、今はその言葉を飲み込む。
「なあ、欲しいものはないのかよ」
胸に顔を当てたまま、結城は橋本のシャツの釦をゆっくりと外しながら再び聞いた。
「今は、特にはないな」
「欲がないな」
俺は一杯あるけどなぁ、と結城も笑う。
橋本にも欲はある。あれもこれもと物を欲しがる恋人に負けないくらいに。けれど、それは今、望むものではないから。いや、一番を目の前にしては、霞んでしまうというもの。
「面白味がない男だよな、ホント」
「悪かったな」
「いや、別に。どうせ強請られても、高いものなんて買えないからな。ま、いいものを思いついた時にでも買ってやるよ」
結城はそう言い、顔を上げてニヤリと笑うと、「とりあえず今は…」と橋本の頬に軽く音をたててキスをした。
「誕生日おめでとう」
祝いの言葉で十二分に満足し、プレゼントの事などすっかり忘れていた橋本のところに結城がそれを持って現れたのは、年の瀬のことだった。クリスマスも終わり、仕事納めのその日の夜、スーツ姿のままで結城は部屋にやって来た。
大きな赤い熊のぬいぐるみと、二足のアニマルスリッパを持って。
結城がプレゼントだと言って差し出したのは、間抜けな顔をしたパンダのスリッパで、もう一足袋から取り出したカエルのスリッパは、「これは俺の。可愛いだろう、盗るなよ」とのことで彼専用らしい。
「フローリングにはやっぱ、こういうスリッパだよな」
履いたスリッパを眺めるために俯き、結城は楽しそうに部屋を歩き回った。
「可愛いだろう?」
「ん、ああ」
「気のない返事だな」
そう言われても、わからない。半ば強制的に履かされたパンダスリッパを見ながら、橋本は肩を竦めた。しかし、自分にはわからないが、結城が楽しんでいるのなら、それでかまわないというもの。
「いや、そんな事はないさ、ありがとう。それより、そっちも気になるな」
橋本は軽く笑いながら、顎で床に寝転がっている熊を示した。黒でも茶色でもなく、何故赤なのか。赤ワインのような深い真紅の毛色に緑のリボンをした熊は、終わってしまったクリスマスのような雰囲気を持っている。
「それも俺にくれるのか?」
「ああ、それでもいいな、贈り物第二段ってことで。でも、要らないと返すようなら、やらない。俺の所有物を預かれ、ということにする」
「……要するに、この部屋に置いておきたいんだな?」
「そう言う事になるかな」
そう言う事にしかならないだろう。橋本の言葉に、結城は笑いながらその熊を引っ張り座らせた。足を伸ばせば1メートル近い長けはあるだろう、大きな熊が橋本を見る。その熊の腕を取り、結城は手を振るように回した。
「さすがに、これを入れる袋なんてないから店からこのまま持って来たんだが、恥ずかしかった。擦れ違う奴なんて、振り返ってまで見るんだぜ、俺とこいつを。駅の改札も、車椅子用を通らなきゃならなかったし」
腰を降ろし、伸ばした足の間に熊を抱き抱えながら、結城は熊の頭をぽんぽんと叩いた。予想以上に手のかかる奴だな、とぬいぐるみ相手に説教をする。
「…っで、何でまた、そんなものを」
「そんなものって、酷いな。名前はトマトだ」
「…赤だから?」
「そう。可愛いだろう、一目惚れなんだ」
そう言って笑った恋人は、微笑ましくもあるのだが…。
熊のぬいぐるみを抱きしめ、橋本に向けてくる結城の視線は、何かを企んでいるように輝いていた。
「……俺に嫉妬させたいのか、結城」
「それも悪くはないな」
出来るものならしてみろ。そう言わんばかりに悪ガキのように目を光らせ、結城は大きな熊のぬいぐるみを抱きしめて寝転がった。その勢いで、履いていたカエルのスリッパが片方床に転がる。それを器用に足だけで履き直しながら、結城は楽しげに笑いを溢した。
惚れたものを何故ここに持ち込むのか、それを何故自分に見せ付けるのか。いまいちわからないが、子供のようなその姿に、今はただ橋本も笑いを落とす。
いつかは本当に嫉妬したり、喧嘩の材料になったりするのかもしれないが、大きな赤い熊と恋人の姿は、今のところ、悪くはない。
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キッチンへと行く恋人の後ろ姿から視線を戻し、結城は傍らに座らせていたクマを押し倒し、床へと寝転がった。クマの腕を枕にし、ふかふかの体を抱きしめる。本当に大きなぬいぐるみだ。先程抱きしめた男と変わらないくらいだと、自分の腕をメジャーにして無意識に計算する。そんな自身に気付き、結城は小さく笑った。
先日、大学時代の連れと飲んだ時、友人の一人が付き合いはじめたばかりの恋人と別れると騒いだ。理由は単純で、煙草嫌いの彼女の部屋に灰皿代わりに使用した小皿があったからだという、馬鹿げたものだった。そう、結城としては馬鹿だと思うものだった。だが、他の友人達は、別の男がいるのだと、そちらが本命なんだろうと頷いたのだ。
疚しい事がないからこそ皿を片付けていなかったんだろう、と結城が言った言葉に、馬鹿だなと友人達は笑った。本命ならば、疚しい事があってもなくても、気付かれる事はしない。逃げられてもいい相手だからこそ、気を回さなかった、そういうことだろう。皆口を揃えてそう言った。
そういうものなのだろうか。結城が首を傾げると、そうなんだよ、と当事者である友人にまで、「お前は抜けているな。そんなんじゃ、直ぐに逃げられるぞ。痛い目を見るぞ」と説教までされた。
恋人と別れることよりも、不貞をされたかもしれないという男のプライドの方が、その友人の中ではやるせないものだったらしい。そんな友人を心配し掛けた自分が馬鹿馬鹿しく溜息を吐いた結城だが、それでもその馬鹿な話のおかげである事を思いつき、その友人に酒をついでやった。
ふと閃いた悪戯のような思いつきは、けれども考えれば考えるほど、素晴らしい名案のように思えてきた。そう。煙草ではなく、自分の場合は、女物のアイテムがいいだろう。
そして、そんなところに飛び込んできたのが、目が覚めるような赤い大きなクマのぬいぐるみだった。単なる思い付きを、気付けば実行するべく、結城はそれを購入していた。
もし、誰かがこの部屋にあがったら、愛想のない部屋の主はとても買いそうにない可愛らしいスリッパやぬいぐるみに、恋人がいるのだと思うことだろう。
結城は抱きしめたクマのぬいぐるみの鼻にキスを落としながら呟く。
「トマト、お前は見張り役なんだ、頑張れよ」
本当にそんな効果があるのかどうかは疑わしいところだが、ないよりはいい。何より、恋人に言ったのも嘘ではない。このぬいぐるみを気に入っている。どこか構わずにはいられない妙な愛敬があるところが、部屋主の男に、少し似ている。そう、抱き心地も同様に。
「…何をやっているんだ」
「スキンシップ」
クマを押し倒しじゃれついている結城に、呆れた声が上から落ちてきた。見上げると、グラスを片手に持った恋人が、僅かに眉を顰めて自分を見下ろしていた。その目に、ニヤリと笑いかける。
「お前とはさっき遊んだだろう」
「…足りない」
「我が儘な奴だな」
一見隙のない男である恋人には似合わない、けれども妙に子供らしい性格にはあっているとも言える、間抜けな顔のパンダのスリッパを指先で弾き、結城は体を起こした。
「仕方ないな、付き合ってやるよ」
床に寝転がったままのクマが、少し非難めいた目で自分を見ている気がしたが、それには構わず、結城は立ち上がり橋本の体に腕を伸ばした。
やはり、抱き心地の良さはあまり変わらない。
だが、ふかふかではないが、こちらの方が温かい。
トクンと聞こえる心音は、当たり前だが赤いクマにはないもので…。
結城はその音に目を閉じ、深く息を吸い込んだ。髪に落とされたキスは、先程自分がクマにしたものよりも、熱いものだった。
/ END /
2003/02/27