# 2

 ライトが絞られた店内は、淡い青い光に包まれている。
 軽く一礼をしてステージを降りた僕は、真っ直ぐとカウンターの手前にある従業員専用の扉へと向かう。だが、いつも誰かに呼び止められ、足を止める事となるのだ。
 そうしてかけられた言葉が僕の耳に届く事はあまりなく、微かに笑みをのせて軽く礼をし、直ぐにその場を通り過ごす。後ろに客の渋顔や溜息があろうとも、僕にはどうでもいい事だ。
 扉を潜ると、小さな部屋が僕を迎える。小さなテーブルと数脚の椅子と、物置となっているロッカーが一つ。そして、僕が入ってきた扉とは別に、もう一つ同じようなドアがある。
 そのドアの小さな窓ガラスは少し汚れている。調理場に面しているからだろうが、それだけではなく古さのせいもあるのだろう。
 少し曇ったガラスから目を逸らし、僕は椅子へと座り天井を仰いだ。ゆっくりと息を吐く。
 笑顔は苦手だ。
 元々表情を変えることが殆ど無い僕だが、それでもこれは仕事だからとどうにか笑いをのせる。いや、そう割り切っているというよりも、覚えた逃げ道だろうか。
 だが、それは自分で見なくとも、上手くいっていないということもわかっている。下手な笑いは、意味の無い刺激を与えるだけなのかもしれない。
 客が僕に下す評価はそう多くはない。
 一人の人間を現すのに、一体どれくらいの言葉がいるのだろうか。
 演奏は上手いが、愛想はない。
 その言葉だけで充分に僕と言う人物を表現できる。
 少なくとも、僕の態度に眉を顰める彼らの中にあるものはこれだけだろう。


「相変わらず上手いね」
 煙草を吸っていると、ノックとともに入って来た男が開口一番そう言った。
 僕より少し背の高い、歳は倍近く違う50前のその男は、吐き出された煙を一瞬目で追い、僕に視線を向けてきた。
「久し振りだね」
 その言葉に僕はゆっくりと瞬きをする。
 男の顔は覚えてはいたが、名前はすでに僕の頭から消えていた。だが、その名を呼ぶことはないので、それは問題にはならない。
 問題なのは、男の出現だろう。
「…お邪魔かな?」
 白髪交じりの髪を掻きながら言った男の問いに少し考え、僕は首を横に振った。客である者がこの従業員の控え室に入ってきたということは、店主がそれを許したということ。ならば、僕がとる道は一つ。
 側の椅子を引き、男に視線を向けると、「ありがとう」と礼を言いながらそこに腰を降ろす。
「仕事が忙しくてね。さっきロンドンから帰ってきたんだ。
 疲れていたんだが、君の音を聴いているとそれも取れたよ」
 上着から煙草を取り出し火をつけながら、苦笑交じりに話す。
「ホント、いい音をだしているね、君は。
 …やはり、あの音を聞くと、…口説きたくなるよ」
 その言葉を聞くと同時に煙草を灰皿でもみ消した僕に、「怒ったのかい…?」と男が問う。
 僕は再び首を振った。
 男が話す内容は初めからわかっている。怒る理由など、何処にもない。
「…そう、ならいいけど…。
 ……でも、やはり考えてくれないか」
 躊躇いがちにも、諦めきれないのだと真っ直ぐな目で僕を見る目から視線を逸らし溜息を吐く。
 何度言われても、僕が返す答えは同じ。
 それをわかっていてもなおこうして口にするこの男の心情が僕にはわからない。
「しつこくて悪いね」
 そう思うのなら、口にしなければいい。
「でも、諦めきれない僕の気持ちもわかって欲しいな」
 それは、勝手というものだ。
「君は、今のままで十分だといったが…」
 そう、充分だ僕は。これ以上、何も欲しくない。
「それもわかるが……私はもっと多くの人に君の音を聞いてもらいたい」
 僕はそれを望まない。誰かに聞かせたいわけではない。
「何より、君と一緒にやりたいんだ、私は」
 男の言葉に押されるように、僕は席を立った。
「保志くん…」
 男を見下ろし、僕は小さな笑いを口元にのせた。
 笑顔は下手でも、こうしたシニカルな笑みは得意だ。
 別に人を馬鹿にしているつもりはない。笑いは相手に対してではなく、自分自身に。馬鹿にしているのは僕自身の全てだ。
 左手首の時計を指でトントンと叩き、休憩は終わりだからと扉に視線を向ける。
「…ああ、ごめん。邪魔をして…」
 意味を汲み取り男の言葉に首を振り、僕は扉へと向かった。
「…でもね、保志くん。
 本当に好きなんだよ。…だから、諦めきれないんだ。…君には迷惑でしかないのだろうけど」
 僕の背中に男の掠れた声が届く。
 ドアノブに掛けた手をおろし、僕は暫くその場で佇み考えた。
 諦めきれないという男の気持ちは、僕にはわからない。何かに執着するなど、ましてその対象が自分など理解出来ない。
 だが、それが僕のあの音だとするなら、少しはわかる。彼があれを好きだという言葉は納得できる。
 僕も、それが好きだから。
 男のように、執着などしてはいないが。
 そんな僕の思いを伝える事は必ずしも必要ではなく、またその手段もない。
 振り返ると男は椅子に座ったまま頭を垂れていた。
 コンコンと後ろ手に僕が扉を叩くと、男が顔を上げる。
 僕はじっと男と目を合わせた。そしてそのまま部屋を出た。

 伝える言葉は、何も浮かんでこなかった。

2002/10/30
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