# 3

 カウンターの中でグラスを磨いていると、スーツ姿の中年の男性客に声をかけられた。
「さっき君の演奏聞かせてもらったんだけど、上手だね。音大生? それとも卒業生?」
 男の言葉に顔を上げた僕は、下手な笑いを顔にのせて軽く頷く。
「ね、いくつなの?」
 その隣にいた綺麗な女性が首を傾げた。その問いにも答える事はせず顔を向け軽く礼を返す。ただ反応を示すだけ。
 磨いたグラスを片付けようと体の向きを変えた僕に、男の舌打ちが聞こえた。
「何だ、その態度は」
「喋れないんです、彼は」
 男の声に、静かな声が重なる。
 マスターが皿を片手にカウンターの中に入って来た。
「あ、いや、…そうなのか、失礼。今日はじめてきたもので…」
 マスターの言葉に、男は驚きを隠さず僕を珍しげに見ながらそう答えた。その隣の女性も、僕を同じような目で見る。
「もう一杯作りましょうか、お客さま」
 自然に話題を避けるように、マスターは空になった男のグラスに手を伸ばした。
「保志くん、氷出してきてくれるかな」
 僕は頷き、まだ視線を向けてくる彼らのそれを背に受けながら、調理場へと向かう。
 物珍しい視線、哀れみをふくんだ視線、まるで汚いものでも見るような視線。そして、その場にいないように存在すら無視するかのような視線。
 人それぞれ、色んな目で僕を見る。
 その視線は、僕には何も影響を与えない。
 この店のバーテン、サックス吹き。
 自分が欲しい音をだす者、愛想の無い者。
 喋れない男。

 どんな目で見られようと、僕は僕でしかない。




 閉店後片付けを済ませ他の店員が帰った後、店内のステージの隅で僕は楽譜の整理をしていた。
 何もこんな所で今やらなくてもいい事なのだが、先程掃除をしている時にバイトの青年が楽譜入れをひっくり返してしまったのが原因だ。慌てて拾い集めようとする彼をとめ、丁度いい機会だからとざっと集めて床に積んだままにしておいてもらった。
 店が終わってもマスターは暫く残っているので、よく防音がきく店内で練習させてもらっている。だから、今夜もやっている事は少し違っても、いつもの夜と同じであった。
 しかし、それはカランと鳴った小さなベルの音で変わりを見せた。
「野坂さん、今晩は」
 マスターに話し掛けた声は男のものだった。
 やって来た者達の足音から、それが複数だとわかっても何人いるかなどわかりはしない。
 こんな時間に訊ねて来る者がいるのは珍しいことだが、特にそうおかしなことではないと、僕は入ってきた者達を確認しなかった。
 今すぐには必要でない楽譜は従業員控え室の棚に入れてき、再び座りこみ必要な楽譜を順番にケースに挟んでいた僕は、途中で切り上げるのも面倒だと、マスターが席をはずせといわないのをいい事にその場に居座った。
 死角となる場所にいる僕の位置からは、来訪者の姿は見えない。だが、少なくともやって来たもののうち声が聞こえた二人は男だということも気にとめるものでもなく、僕は作業に集中した。
 だが、その勝手に耳に入ってくる会話が、このままこうして聞いていていいのかと思うような雰囲気に変わりを見せ、僕は手を止めた。
「あなたの言うように今の売上を見てみると、確かにこのままの状態で全額を返す事は不可能ではないようですね」
 他にも数人がいるようだが、会話をしているのはこの無機質なようでいて少し甘味のある声の男ばかりだった。
「だが、それをじっくり待つつもりはこちらにはない。それが結論です」
「…では…」
 いつも落ち着いているマスターのものとは思えないその声に、僕は軽く目を閉じた。
 いつの間にか、店の中の空気が緊張していることに気付く。
 いや、そうではない。話は良く見えないが、自分がいつもと違う雰囲気に飲まれそうになっているのだ。
 それは、マスターも同じなのだろうか。
「ここの権利は頂きます。だが、店は今のところはこのまま営業してもらうことになりました」
「…どういうことです」
「簡単です、あなたの上にオーナーがつくと言う事です」
 男が誰かに指示する声が上がると、がさがさと鞄を空け何かを取り出す小さな音がした。
「契約書類です、サインを。
 これとこれは、私共の方で処理させて頂きます。こちらは、然るべき方法を取らせてもらいますが、あくまでも事務的なものでしかありません。
 おわかりいただけますね」
「…そちらの言うように働けということですね」
「野坂さん、こちらとしてはこれでも妥協しているんです、おわかりでしょう。
 今ここで全額きっちり揃えて払えと言われても、あなたはおかしくない立場にいるんです。こちらにはそれを実行できる手段がある。だが、それではあんまりだろうと、上の者は考えこうして悪くはない案を出したんですよ。
 あなたがこれにサインをしなければどうなるのか、わかっていることでしょう。何を躊躇うんですか、野坂さん」
「…しかし…」
「大切な店をヤクザに渡すくらいならたたむ方がいい。…ま、そう考えるのが普通です。でもそれはチャンスを潰すことになる」
 紡がれる言葉とは違い、男の声は何の変化も見せず淡々としていた。
「野坂さん、上の者達は今のこの店の売上を美味しく思っている、潰すのは勿体無いと思っているんです。あなたが今断っても条件が良くなることはない、逆に悪くなるだけです、こちらはあなたの意思に反してでも契約を成立させられる。
 ここで断るのは賢い選択じゃない。サインをして下さい。そうすれば、この店が生き残るチャンスが生まれて来るかもしれない」
「…君は…」
 マスターはそう呟いたが、そのまま口を閉ざした。

 僕の脳裏には、見た事のないこの男が笑っている顔が浮かんだ。

 それは僕が自分自身に落とす笑いに少し似ている、そんな気がした。

2002/10/30
Novel  Title  Back  Next