# 4

 いつの間にか手の中の楽譜をじっと見つめたまま動きを止め、僕は彼らの言葉に耳を傾けていた。だがそんな自身に気付き、小さく溜息をつく。
 手の中の楽譜を膝に置き、側にあった楽器ケースの留め金を少し乱暴に、わざと音を立てるようにカチャカチャと外し蓋を開けた。
「誰だっ!」
 マスターと話していた男とは違い、まだ若い男の鋭い声が店に響く。
 一人の人間が僕の方に近付いてくる足音を聞きながら、揃えていないバラバラの楽譜をケースの中に放り込んだ。
「男が一人」
 ケースの蓋を閉じると同時に、近くで少ししゃがれた低い声が上がった。僕の存在を他の者に教えると、ステージ上に上がりながらその奥にいた僕に、「おい、立て」と言葉を落とす。
 命令を受け入れなければならない義務もないが、特に逆らいたいという強い意思もない。
 僕は楽器ケースを左手で持ち、右手に二冊の楽譜入れを持ってゆっくりと立ち上がった。
 ステージの上にいたのは、少し小太りの中年の男だった。向かい合った僕の姿に少し目を細める男と同じように、僕も相手に視線を走らせた。
 グレーのスーツ姿に特に特徴のない顔。だが、男を包む雰囲気はやはり普通のものとは違った。耳にした言葉のとおり、この店にいる者はヤクザなのだと思わせる空気を纏っている。
 しかし、僕にはそんな事はどうでもいいというものだ。興味はない。
 立ち上がった僕をじっと見る男の横を通り、僕はステージを降りた。店内からは死角となる場所から現れ僕に視線が集まる。浴びるそれを気にすることはなく僕はゆっくりと足を運びながら、その者達を見返した。
 訪問者は4人だった。マスターの前のカウンター席に腰掛けた30半ばといった男と、その後ろに立つ僕より年下だろう若い男。そして、ステージまで来た男と、その男と同じ40前後の年ほどの痩せた男。
 たった4人で、店の雰囲気を変えている。
「おい、止まれっ」
「何者だ?」
 若い男の声に、マスターと話していた男の声が重なり、一瞬静かな間が生まれた。一人席につくこの男が一番上の者なのだろう。
 僕が向けた視線を逃すことなく受け止め、更に強い視線を僕に返す。
「…従業員です、片付けをしてもらっていただけです」
「ああ、それは失礼。まだ、仕事中でしたか」
 男の言葉に、マスターが顔を少し顰める。
「名前は?」
 男が僕に小さく首を傾げた。
 黒のスーツに、黒のシャツ、黒のネクタイと黒ずくめの男だが、顔にのせた笑みには優しさが浮かんでいた。僕より上手い作り物の笑み。だが、目の鋭さまでは消してはいない。
 その目が、僕が何者か判断するように観察する。
 だが、その強い視線は、僕を射抜き、他の何かを見ているかのようでもあった。確かに僕を見ているのに、僕の知らない僕を見ようとしているようとでも言うのだろうか。僕の中の更なる何かを見ているよう…。
 僕の、知らない視線。
 見つめ返すように男の黒い瞳にじっと視線を当てていた僕は、いつの間にか口元に小さな笑いをのせた。
「名前はと聞いているんだ、答えろ」
 後ろから近付いて来た先程の男が、太い指を僕の肩に乗せた。
 僕はゆっくりとした動作で右手の楽譜を左腋に挟み、その空いた手で男の腕を掴み外した。意外な行動で驚いたのか僕の肩に用はないのか、抵抗もせずあっさりと外れた男の腕は、それでも僕の足首ほどの太さがあり重かった。感触から小太りなのは脂肪だけではなくきちんと筋肉もある事がわかった。
 多分、力で来られては、僕に勝ち目などないのだろう。
 その男と目が合い、僕はやはり同じように笑いを浮かべた。
 直ぐに男が眉を釣り上げる。
「なんだ、お前っ」
 馬鹿にしているのか、と怒る男に首を振る。そんなつもりは全く無い。何故そういうことになるのか、僕にはわからない。
「や、止めて下さいっ!」
「止めろ、千葉」
 マスターの焦った声と、男の静かだが絶対の命令である重い声が重なった。
 僕は千葉と呼ばれた男が不服そうに向ける視線を追って、再び席につく男と視線を合わせた。
「彼は関係ないでしょう、筑波さん。
 保志くん、悪いね。今日はもう帰ってよ」
 そう言ったマスターに僕は視線を向け、再び男にそれを戻した。
 そして、右手を挙げ、人差し指で男を指す。
「…何だ?」
 眉を寄せた男の側で、マスターが僕の意図に気付き同じように顔を顰めた。小さな溜息を吐く仕草に疲れが見える。
 けれど僕は腕を下ろさなかった。
「…あなたの名前は、と訊いているんです」
 マスターが渋々といった様子ながらも、僕の行動の意味するところを読み間違えることなく男に伝えた。
「彼は、声が出せないんです」
 僕は一体、彼が言うその言葉を今まで何度聞いただろうか。ふと、そんな事を考える。
「そうなのか?」
 じっと眉を寄せたまま僕を見つめていた男がそんな言葉を口に乗せた。
 それは、僕が喋れないことへの問いなのか、それとも指を指す事の意味の答えなのか…。どちらにしろ、マスターが言った事はどちらも正しいので、僕はコクリと頷きをひとつ返す。
「そうか…。俺は筑波直純だ」
 男の言葉に、僕はもう一度頷き、彼に近付いた。
 マスターに右手を出すと、いつものようにペンを渡してくれた。だが、その顔は笑ってはいない。
 わかっている。こんな男達には関わるな、そう言いたいのだろう。
 それは僕を心配してのこと。
 だが、僕はそれを受け入れはしなかった。
【保志 翔】
 手にしていたファイルから楽譜を一枚引き出し、僕はその裏に自分の名前を記した。
 自らこうして誰かに名前を教えるのは、一体いつ以来だろうか。
「ほし、しょう?」
 男の言葉に首を横に振り、ふりがなを付け加える。
「…かける、か。なるほど。――保志翔、ね」
 僕の名前を呼び、男は口の端を軽くあげた。

 緩めた口元以上に、僕は何故か、男の瞳が穏やかになったように感じた。
 鋭い視線に、優しさが見えた。

2002/11/03
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