# 5
男達が去ると、まるでそれまで時が止まっていたかのように、店が呼吸をはじめた。
いつもの夜が戻る。
「話を聞いていたのならわかっただろうけど…。当分は今まで通りやっていけるだろうが、正直どうなるかわからない…。
面倒にならないうちに、皆には辞めてもらった方がいいのかもしれないが…。……皆にはまた今度話よ…。
今日は、悪かったね、保志くん」
恥ずかしい話だが妻が借金をしてね、と切り出し、その言葉で話を終えたマスターの表情は、いつもよりもずいぶんと年を感じさせるものだった。まだ50前半だというのに、一気に老人のように老け込んだよう。
【マスターは、どうするんです?】
ペンを走らせ彼に見せると、「そうだね…」と少し考え込むように長い溜息をついた。
「僕はね、この店を愛しているんだ。だから、こんなことになってしまったけれど、最後まで関わっていきたい。例え評判は落ちようとも、客が変わろうとも…。
…店を残して自分だけ手を引く事は、出来ないよ」
客のいない静かな店内をぐるりと見回しながらマスターは言った。その声に段々と力強さが戻ってくるのが心地良かった。
【僕もそうしたい】
走らせた文字に、マスターが首を傾げる。
【僕もこの店が好きですよ】
その言葉に、「ありがとう…」と呟いた彼に軽く礼をし、僕はその場を後にした。
僕の言葉にどれほどの意味があるのか。
どれだけの感情が詰まっているのか、どうなのか…、僕自身にも全てを知ることなど出来ない。
だが、嘘ではない。
あの店が好きなのだ、僕は。
真夜中の街。
それでも、動く人影は意外なほど多く、いくつかの視線を受けながら僕は家路を歩く。
明日になれば、僕はまたこの道を歩き店に行く。そしてまた家へと帰るため歩き、また店へと向かう。
何度も何度も今まで歩いてきた道。
いつまで続くのかはわからないが、これから先も歩くのだろう道。
そう、僕はまだ、この道を外れる未来を見てはいない。終わりまでの回数を数えてはいない。
店が好きだ、気に入っている。
だが、それ以上に、今の僕はこれが自分の歩く道だと思っている。確信している。
他の道を行く気持ちは、僕にはまだない。
帰り着いたアパートの部屋へと続く階段の下で、一匹の野良猫がゴミを漁っているのと遭遇した。
何処からか持って来たのだろうか、それとも誰かがそこに捨てていたのだろうか。小さなコンビニの袋に前足を掛けたまま、猫はじっと僕を見る。
危害があるかどうか、僕を観察する。
暗闇の中で光る目から視線をそらし、僕は止めていた足を動かした。
同時に身を翻した猫が直ぐに闇の中へと姿を隠す。
階段を登る僕の足音が、静かな夜の空気にのり、響き渡る。
僕が立てる、鍵を開ける音も扉を開閉する音も、まだ起きている者がいたなら耳にしているのだろう。音の反響が大きく、住民の出入りは筒抜けのアパート。
だが、僕はそれが結構気に入っている。
電気をつけることもなくそのままベッドに寝転がった僕の耳に、誰かが立てる音が聞こえる。先程僕が立てた音とは逆に、扉が閉まる音の後、カツカツと足音が響く。階段を降りる足音が上からやってきて僕の部屋の階を通り過ぎ、下へと降りていく。
暫くして、車のドアの開閉後に低いエンジンの音が響きわたり、駐車場から一台の車が走り出て行く音がした。
顔を会わせる事など滅多になく、擦れ違っても挨拶もかわさない同じアパートの住民。だが、その人間の存在はこうして確かに感じる。
名前は知らない、どの部屋かはわからない。だが、住民の誰かが僕が帰宅するのと入れ違いのこの時間にいつも出かける。
朝僕がゆっくりと起きる時間には、同じ階のどこかの部屋から、二組の男の足音がバタバタと走り去るのを聞く。
昼食時、時折だが何処かの部屋からジャズの音楽が流れ出す。風に乗りやってくるその音は、きっとCDではなくレコードだと思わせる色のあるもの。
仕事に出かける前には、騒がしいほど何人もの子供が駆け巡る音があちこちから響く。
僕が誰かの行動をこうして聞いているように、僕の音もまた誰かが耳にしているのだろう。
夕方に出かけ、夜中に帰ってくる僕の生活の音を。
直接顔を合せ言葉を交わさなくとも、僕はこうして人と繋がっているのだ。確実に。
2002/11/03