# 6
開店準備を始めるまでまだまだ時間がある店内にいるのは、僕一人。
窓のない店は、電気を点けなければいつでも夜だ。それはどこか、光の届かない深海を思い浮かばせる。
ステージのライトだけを点け、僕はその下に座り辺りに楽譜や細々とした道具を散らばらせていた。例え誰かが来ても、侵される事のない僕のテリトリー。
その場所で、僕は店に来る途中に買ったリードをチェックしていた。小さな箱の中身を全て楽譜の上に出し、一枚一枚確認して戻していく。
リードは一箱のうち、1、2枚良いものがあれば上等というもので、全てハズレの場合もある。そんなものは練習用にしたり自分で手を加えたりして使うのだが、僕は綺麗ではない音も嫌いではないので、それはそれで楽しんでいたりもする。
だが、同じ買うなら、やはり良いものの方がいい。僕だけじゃない、人間とはそういうものだ。
頭上のライトにリードを透かしその良し悪しを見ていた僕に、突然声が降ってきた。
「何をしているんだ?」
いつの間に来ていたのか、男が一人でカウンターの席に座りこちらを見ていた。
筑波直純。
人の名前を覚えるのは得意ではないが、男の名前は数日立った今も一度聞いただけなのに忘れてはいなかった。その事実に僕は少し驚く。
だがそれは僕の心を変えるほど大きいものではなく、僕は男に向けた視線を直ぐに戻し、翳していたリードを口に咥え込み、新たなものに手を伸ばした。
席を立ちコツコツと足音を響かせながら男が近付いてくる気配を、光に翳したリードをじっと見つめながら僕は感じとっていた。
この店の床は、何故だろうか足音が良く通るようになっている。客がいる時でも、それは消えずに店に響く。だが、それは嫌な雑音などではなく、僕には心地良いものだ。他人の動きを疎ましく感じる事がないわけではないが、他人の存在を常に捉えておきたい僕には安心するものである。
僕がこの世界で一人になる事などない。常に誰かが側にいるのだ。ならば、その存在を常に確認していたい。
他人に関心があるわけではない。ただ、自分が何処にいるのか、何をしているのか、それを自覚しておきたいのだ。僕が今立つ場所はここなのだと。
じっと光に翳し見つめていたリードを下ろすと同時に、僕は小さな溜息を吐いた。
手にしていたリードを半透明のケースに入れ、僕はそれを古い箱の中に入れた。
全く使えそうにない、ハズレ。
「何だ、それは」
ステージの前まで来た男は、僕を見下ろしそう訊きながら腕を組んだ。
店のつるりとした黒光りする床よりも10センチほど高くなったステージは古い木で出来ている。普段は全く違和感はなく見せと一体になっているが、何故か今は男と僕の間に壁があるように感じた。その段差に、見えない壁が。
だが、それは嫌なものではない。多分、男の気遣いなのだろう。…それとも、自覚はないが僕が侵される事を拒んでのバリアを展開しているのだろうか。
そんな事を考えながら、僕は男の足元から頭へとゆっくりと視線を向けた。
黒ずくめの服装だった先日とは違い、今日はノーネクタイの青いシャツにグレーのスラックスという格好だからだろうか、男を取り巻く周りの雰囲気は柔らかいものだった。こうして見下ろされていても、威圧感など全く感じない。
答えが返らない事を気にする風でもなく、特に何の表情も顔にのせずに男は僕を見る。その視線に視線を合わせ、僕は再び自分の手元にそれを落とした。
男の問いは、僕の行動を見ていればわかるもの。態々説明する必要はない。
側にあった楽器ケースを引き寄せ蓋を開けると、光を受けてサックスが鈍い輝きを放つ。
マウスピースを取り出し口に咥えていたリードを固定し、僕は口づけゆっくりと息を吹き込んだ。
鳴り響いた音と唇を揺らす震動に満足し、小さく頬を緩めて笑う。
これは、アタリ。
「なるほど。そんなものを使って吹くのか、サックスは」
感心した男の声に、僕は顔を上げ、眉を動かせた。
「知っているわけがないだろう」
男が口元に笑みを乗せ肩を竦ませた。
そんな男の姿から視線を外さずにいると、相手は軽く眉を寄せ小さく息を吐いた。
「俺が居ては、邪魔か?」
僕はその問いに首を振る。
「そうか。でも気は散るよな、悪かった」
そう言って踵を返そうとした男の手首を、気付けば僕は捕えていた。
微かな驚きと大きな疑問を顔にのせ、何の真似かと男が僕を見下ろす。
だが、僕はそれに応えるだけの答えなど持ってはおらず、ただ男を見返しもう一度首を振った。
あなたが居ても、僕はかまわない。
それを伝える術を探そうとし、どうかしていると直ぐに放棄する。握った手を放し、僕は男を捕まえるために浮かした腰を戻した。
本当に、どうかしている…。
何故か男が去ると感じた瞬間、小さな焦りが突如沸き起こったのだ。だが、気付いた途端、それは一瞬にして消え去った。残るのは、戸惑いと、それにより生み出された気まずさ…。
「……どうした?」
男の言葉に顔を上げることはせず、僕は力なく首を横に振った。
目を閉じて、消えたあの感情を探すが、…今はもう何処にもない。何を感じ、何を思ったのだろうか、僕は…。自分のことだというのに、わからない。
ふと男が動く気配に気付き瞼を上げると、視線の先には男の靴があった。男が屈み込む空気の流れと僕の吐息がぶつかり合うほどの近い距離…。
「…気分でも悪くなったか?」
強引にではなく、そっと頭に触れてきた手が顔を上げるように促す。
抵抗せずに従い、間近で男と視線を合わす。
真ん中よりも少し横でわけた髪は、いつもは後ろに流しているのだろうが今は崩れて目にかかっており、その長めの前髪の向うにある瞳は少し灰色がかっていた。
僕が思うよりもそう歳は変わらないのかもしれない、30前後だろう。整った顔立ちと雰囲気に隠されているが、こうして近くで見ると、まだどこか、無鉄砲といったような若さが潜んでいる気がする。
僕はゆっくりと瞬きをした。
大丈夫。何でもない。
それを伝えるため唇を動かしたが、そこから零れるのは細い息のみ。
僕は少し目を細め、唇の端を上げて笑った。
【何でもないです、すみません】
無言で僕を見つめる男の目の前に、楽譜の裏にそう記してさしだし視線を遮った。
楽譜を受け取りその手を下ろした男が僕を見た時、僕はいつもの笑いをもう一度浮かべた。
何でもないのだ、本当に。
楽器を組み立て息を流すと、店に低い音が響いた。
押したキーを順番に離し、また塞いでいく。半音ずつ上がる音階が段々と速度をあげ、まるで何かの曲のように踊りだす。慣れ親しんだ音。
けれど、僕の耳は、それがほんの少しだけいつもと違う音であることに気付いていた。
だけど、気付かない振りをする。
そんな僕を、男が飽きもせずに見ていた。
他人の視線を、初めて痛いものだと感じた。
2002/11/13