# 7

 マスターが店の現状に付いて他の従業員達に話をした数日後、店はいつもと違う夜を迎えることになった。
 普段よりも騒がしい店内は、静かな、落ち着いたいつもの雰囲気など全く見せない、異様な空間へと姿を変えていた。
 見るからにその筋のものだといわんばかりの人間と、その中では一見まともそうに見えるがやはりどこかが違う人間で店は埋め尽くされている。スーツ姿の男達は、見た目の低能さやまともさとは別のところに、他人を畏怖させる雰囲気を持っていた。どの男達も一般人にはない目の色をしていた。
 そんなおかしな光景に、僕はカウンターの中で溜息を吐いた。酸素がうすい空間にいるような、微かな眩暈を覚える。
 今までにもヤクザと呼べる客が出入りした事は確かにあったが、それは数人といった程度のもので、今夜のように客全員がそうだというのは当たり前だが初めてのこと。客が違えば店の空気もここまで変わるのかと、僕に小さな驚きをもたらせた。だが、そんな事はあまり意味のないことだ。
 雰囲気に飲まれ、顔を青くしながら店を歩く同僚の姿に、僕の口からまた溜息が落ちた。
 本当におかしな事になったものだ。

「保志くん」
 調理場から姿を現したマスターが、「悪いけど、G席に持って行ってくれるかな。僕も直ぐに行くから」と持っていた皿を僕に渡し、小さく笑って中へと戻って行った。
 マスターが店のことについて何度も従業員に頭を下げていたのはつい先日だ。それに加えて今夜の事を考えれば、彼が酷く疲れていても全く不思議ではない。顔に影を使ったマスターはこのまま倒れるのではないかと思うような疲労を抱えた姿だった。
 だが、そんなマスターを気遣うほど余裕のある従業員はいない。そして、マスター自身、自分が倒れてはならないという思いがあるのだろう。すまないと周りに気を配り、何とか迷惑をかけないよう神経を張り詰めている。
 頭ではそうだと理解できる。マスターのことも、同僚のことも。
 だが、心は共感出来ない。僕の心は、冷めきってしまっているかのように、相手の熱に反応しない。彼らの緊張が、戸惑いが、憤りが…僕にはわからない。
 この汚れた重い空気は好きではない。だが、僕はこれを不快に感じるほどの感情も持っていない。
 普段の空気を吸い慣れたのでその方がいいと思うだけだ。この空気でも僕は生きられる。実際、僕にはこの空気の方があっているのかもしれない。
 そう思うと、おかしなことだが、少し懐かしい感じがした。この汚れた空気が。

 マスターに告げられたテーブル席は一番騒ぎの中心になっているところだった。向かう途中に何度も僕の上を言葉が飛び交う。その中に、カウンターにいた者がマスターを呼ぶ声が混じったのを捉えたので彼が足止めをくらったことに気付いたが、僕はそのままその席に近付いた。
 何人かの者が僕に視線を向け、そして直ぐに手の中の料理にそれを移す。
「おっ、やっと来たか」
「何だ? また、凝ったものが出てきたな〜」
「おい。何でもいいから酒もってこいよ」
 空になっていた皿を退け、手に持っていた大きな皿をテーブルに置く。早速のびてきた手を避けながら、空いた酒瓶を数本取った僕に、誰かふがぽつりと言った。
「ま、苛めるつもりはないんだけどねぇ」
 静かな声だったが、騒がしい店内でも良く通るものだった。
「尾島さん? どうしたんすか」
「俺達はこれでも客だぞ、わかってんのか、兄ちゃん」
 怒ってなどいない、ただ静かな声。なのにそれは他の者達の声を奪っていった。店が静かになっていく。
「この店の教育がなっちゃーいねーのか。それとも、客商売といえども、俺らのようなものへの対応はそれでいいと教わっているのか?」
 じっと僕を見る男を僕は同じように見返した。
 体格のいい男は50前後といったところだろうか。後ろに撫で付けた髪に白髪が混じっているのが、青い光の中でもわかった。組織の中で地位の高い者なのだろう。周りにいる男達もそうだが、人を威圧する雰囲気はかなりのものだった。側に居た若いチンピラといった言葉が似合いそうな男が息を飲む音が聞こえる。
 だが、僕にはその強い目も、男が作り出す空気も、恐怖の対象とまではならなかった。
 何だ、何があった、とひそひそと話す周りの者達は騒いでいたのでそう気にならなかったのだろう。これが取立てできた店ならば、こちらの落度を見落とさないよう気を配っていたかもしれないが、彼らは騒ぎに来たのだ。従業員に注意など配っていなかったのだ。
 だが、この男は違った。男は僕を見ていた。
 男の言いたい事はわかっている、僕が客と接するといつも問題になることだ。いつもなら、下手だとわかりつつそれでも笑みを浮かべるが、今はその気にもなれない。そんなことは全く意味がないとわかっている。
 だから僕は、他に方法がないので男を見返した。ただそれだけ。
 だが、余計にそれが沈黙を作り出す。話していた者が口を閉ざし、この行く末を見ようと注目する。そんな事は気にせず、男は僕をじっと見る。何を考えているのか読めない視線。
 ヤクザなのだ。
 何故かふとそれを実感した。だが、何の役にもたたない。
 このまま戻ったとしたら、どうかなるのだろうか。
 そう思いながら答えなど見つからず、それを実行しようとした時、
「尾島さん、それはやはり苛めですよ」
 と、少し呑気な楽しげな色を含んだ声が落ちてきた。
 コツコツと近付く足音を耳にしても、僕は目の前の男から視線を離さなかった。
 いや、驚きに離せなかったのか、それとも振り返らずとも足音でその人物がわかったので、その必要がなかったからなのか…。どちらにしろ、助けの手が入るなど、それがマスターではない人物であるなど、僕は全く想像していなかった。
 じっと見つめてきていた男が口元に小さく笑いを作り視線を横に流しても、僕は目を動かすことは出来なかった。ただ、ゆっくりと瞼をおろした。
「筑波、遅かったな」
「遅くなりました、済みません」
「っで、誰が苛めているって?」
「好みだからと、こんな所で手を出さないで下さいよ」
 その言葉に、多くの者が遠慮気味ながらに笑った。店の空気がまた騒がしいものへと戻っていく。
 僕の横にやってきた男が並んだ。微かに鼻をくすぐった外気に僕はゆっくりと瞼をあげる。視界の隅に捉えた男の顔に水滴が落ちていた。今夜は雨が降っているのだと言う事に気付く。
「おいおい、いくらなんでもそんな気はないぞ、俺は」
「確かに、尾島さんの好みではないですよね」
「ああ、そうだ。こいつは、怖くて喋れなかった、なんてたまじゃない」
「確かに、怖いもの知らず、って感じですね」
「そう、だからだな…、ああ、この店、お前がやっていたか。そうか、そうか。
 まあ、いい。座れ」
 失礼しますと言いながら、座っていた者達が避け空いた席に外の空気を纏った男が腰を下ろした。
「どうぞ」
 早速尾島という男が持つグラスに酒を注ぎ、そこで男は思い出したかのように僕に視線をむけた。色のない瞳が僕を捕らえる。
「彼は声が出せないそうですよ」
 そう僕を説明したその言葉に、酒を煽った男は小さく息を吐いて言った。
「…また、なんでそんなものを…」
 雇っているのか、それともこうして店に出しているのか…?
 その言葉がどう続くのかは、本人が口を閉じたのでわからないが、声は呆れた色を含んでいた。
「耳は聞こえるのか?」
「ええ。この店の看板サックス奏者です」
「ほお、それは、それは。…おもしろいな」
 グラスを口に運びかけた男がそれを止め、にやりと言うように口を上げて笑った。僕に当てたその視線は先程までと違う色があるように感じるものでもあったが、実際に何が含まれているのかまでを見通すことなど出来ない。
 おもしろい。
 男のその目よりも、そんな評価が自分に与えられるなど予想していなかった僕は、その言葉に反応して口角を上げたて笑った。

 おもしろい。
 それは、僕が今までの言われたものの中で、一番人間臭いものなのかもしれない。

2002/11/13
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