# 8

 僕が住むアパートの近くの大きな公園には、ホームレスの人が多くいる。
 夏は過ぎたがまだ寒さはあまり感じない温かな陽射しが落ちる昼下りに、僕は楽器を持ってその公園に足を踏み入れた。自ら作ったテリトリーとなる小屋の周りに腰をおろしていた数人の男達が、僕の姿を見つけ軽く手を挙げる。
「久し振りだな」
「まだ、くたばってなかったのかい?」
 そんな挨拶代わりの言葉に僕は口の端を上げて笑い、彼らのもとへと近付いた。
 この公園でも若者のホームレスが増えてはいるが、彼らはもっと裏手になるところで寝起きしているのであまり顔をあわすことがない。知り合いになるのはもう何年もこうして生活をしている、僕の父親よりも上の年齢の男達ばかりだ。
 彼らは僕を可愛がってくれているのか、からかっているのか、こうして顔を見つけると必ず声をかけてくれる。はじめは互いに距離を置いていたのに、いつの間にこうなったのだろうか。
 月日とは必ず変化を与えるものなのだろうか、と僕は時々考える。
 それは決していい方向に変わるばかりではないが、僕はこの変化がそう嫌いでもない。今を維持していきたいという願いは確かにあるが、ゆっくりと変わるのもまた生きている証拠だと思うから。
 僕がこうしてこの公園に練習に来るようになって、もう何度も季節が巡った。人もまた、それと同じというわけだ。
「おう、何か手土産はないのか。こっちは聴いてやるんだぞ」
「ははは、なるほど、なるほど。確かに、あんたの言うとおりだ。なあ、ボウズ」
「いや、練習じゃなく芸だろう、それは。ケース広げろよ、兄ちゃん。小銭ぐらい飛んでくるかもしれんぞ」
「いいね、それ。って、この兄ちゃん上手いのか?」
「そうだな、俺も音楽なんてわからんからな〜。ちったあ吹ける方なんだろう」
 側に寄った僕にそれぞれ視線を向け、僕を肴に楽しげに話をする。
 彼らは僕を好き勝手に呼ぶ。名前を聞かれた事があり教えた事もあったが、呼ばれることはほとんど無い。多分もう忘れているのだろう。僕自身彼らの名前を覚えてはいない。
 僕達の関係に名前など大して重要なものではないのだということだ。時々来てはサックスを吹く男。そう認識されているだけで充分に事は足りる。
「暇してたんだ、聞いてやるよ。さっさと吹けよ」
 顎の髭を撫でながら笑う男のその言葉に、僕は首を横に振った。
 そして、太陽を指差し、少し先の木陰にそれを移す。
「ああ、行け、行け。ここまで音を届かせろよ」
 直射日光を浴びるこの場で吹く気はないと表した僕の行動を直ぐにくみ取り、男は犬を追い払うように片手を振った。
 僕はもう一度口を緩めて笑い、日光浴をしている男達の中を通りぬけた。


 店では演奏をしているよりもバーテンとして動いている方が多い。僕は演奏者として雇われているわけではないのでそれは当たり前のことだ。
 別に人前で吹きたいという思いがあるわけではなく、たまたま僕がサックスを吹ける事を知ったマスターがピアノ演奏の繋ぎに使っただけに過ぎない。今でも、そのまま演奏を続けることになりいつの間にかそれが当然となってしまったが、僕はやはりバーテンでしかない。
 そう、ただ趣味でやっているだけなのだ、サックスは。お金を取れるほどの技術などない事は十分承知しているし、上手くなりたいという願望もあまりない。ただ吹きたいから吹く、それだけなのだ。店のステージに上がるのも雇い主に頼まれるからに過ぎない。
 だから、店だろうと、公園だろうと、僕にはあまり違いはない。確かに客の前では音階練習などせずに曲を吹いてはいるが、気分的にはこうして練習をしている時と何ら変わらない。
 サックスを使って何かを言いたいわけでも、表現しているわけでもない。ただ、この音が好きで、僕は聞いていたいから、だから吹くのだ。それで他人が何を感じようが興味はない。
 僕にとってサックスは、全てではなく生活の一部にしか過ぎない。
 だが、それをわからない人がいる。僕がそんな彼らを理解出来ないのと同じで、彼らはこんな僕を理解出来ない。
 欲がないね。
 そう言われる事があるが、別に僕はそういうわけではない。
 もっと違う場所で吹きたいなど僕は願っていないのだ。願うがそれを単なる夢でしかないと思っているのなら、欲がないと言えるのかもしれないが、僕は元々そんな事を考えてはいないだけなのだ。プロになりたいわけでも、どこかに場所が欲しいわけでもない。そんなものを手に入れたいと思わない。ただそれだけなのだ。
 例え他人にすれば価値があるものだとしえも、自分の要らないものは要らないものでしかない。そこに欲の有無など関係ない。
 第一、欲望なら僕も人間だ、それなりに持っている。
 昔は焦がれるほど切実に色々なものを願った事もあった。そう、それは決して手に入らないのに、貪欲に、身のほど知らずに。
 今はあの頃のように焦るほど何かを求めることはないが、それでも僕は願っている。
 静に。ただ、静にそれを思い続けている。

 体温より冷たかった楽器は、直ぐに僕の手の中に馴染む。息を送り込めば、音が鳴る。それはどこか、言葉を喋るのに似ている気がする。

 僕はこれをまだ手放したくはない。
 だから、このまま。
 このまま、こうして時を流れていきたい。
 行き着く先がどこであろうと、今のまま…。

 だが、変わらないものはないと、僕は知っている。

 矛盾した心を、僕は時々、捨ててしまいたくなる。

2002/11/15
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