# 9

 反響をするものがない拓けた空間では、音は僕のもとを離れて直ぐに飛んでいってしまう。店の中とは違い響かない音は、どこか乾いた叫びにも聞こえる。
 アパートでは昼間でも音を出す事は迷惑になるので、僕はよくこの公園にサックスを吹きに来る。
 珍しがる子供達に遠巻きに囲まれることがあったり、昼寝中のサラリーマンの子守唄になったり、ホームレスの連中にヤジられたりしながら、僕は音を紡いでいく。同じように練習する音大生とセッションをしたこともあれば、迷惑そうに、怪しげに見られた事もある。
 ここでは、僕は一人であるのに、一人ではない。公園という場所にいるというだけで繋がりが出来、不思議な関係が生み出される。
 確かに日常であるのだが、どこかそうではないような感覚に陥る時がある。
 それは、周りの視線だろう。普段は僕をただの擦れ違った人としてしか向けられない視線が、名前も何をしているものなのかも知らないのに、ただ演奏をしているだけで好奇心を向けられる。ほんの少し、歩いている人とは違うだけで、異端者としてみなされる。

 そんな風に何人もの人間が僕に目を向け、立ち止まったり過ぎ去さったりする中、何故かふと気になる視線を感じ、僕は顔をそちらに向けた。
 そこには、あの男が立っていた。
 筑波直純が、一人で。
 楽器を下ろした僕は、じっとそのまま男を見つめた。
 ゆっくりと近付いてくる男の顔には、笑みが浮かんでいる。
「店の時と違うんだな」
 男の言葉を理解し損ねた僕に「楽器だよ」と指さす。僕は手の中のサックスに視線を落としながら頷いた。
 店で使うアルトサックスを毎日持ち運びするのは面倒であり、それを練習したければ店に行けばいい事なので、家では別のソプラノサックスを持っている。どちらかと言えば、僕はこの楽器の方が好きだ。
 極たまにだが店の方でもこの楽器を使うこともあるが、この男が何度か来た時はいつもアルトだったなと僕は思い出す。そう、知らなくて当然だろう。
 軽く楽器を持ち上げ、男に視線を向けて僕は口元を緩めた。
「ここでよく練習をしているのか?」
 片足に体重を乗せながら腕を組んだ男は、初めて会った時のように黒ずくめの格好をしていた。銀のネクタイピンがその色を受けながらも際立っているのが目につく。
 だがそれも、木陰にいるので、周りの視線に勝つほどの強い輝きを放つことはしない。
 今は演奏をしておらず、サラリーマンもちらほら居る中で、僕と男の組み合わせはそう珍しいというものではない。だが、何人かの人がこちらに視線を向けていた。それは、普段僕に向かってくる視線とは違った。
 容姿もそうだが男が持つ雰囲気に周りがのまれようとしているのを感じる。人を惹きつける男なのだと、今更ながらに確信する。僕を見る男の目は今は鋭さを隠しているが、多分その肩書きの立場に立つ時は、暗く輝くのであろう。
 僕は男の言葉に返答はせず、小さく唇を動かしながら、どうしてここにいるのかという意味をこめて地面を指差した。
「何故ここに、…か?」
 間違えることなく意味をくみ取った男は、答えを口にする前に小さく笑う。
「ここに入っていく姿を見かけたからだ」
 その言葉に僕は軽く眉を寄せた。僕が公園に来たのかなり前のことだ。
「楽器を持っていたから、もしかしたらまだいるかもしれない、用事を済ませてこうしてやって来た。そして、予想通り居た、それだけだ」
 なんて事はないだろう。別に見張っていたわけじゃない。
 そう言いながら笑った男に、僕は更に眉を寄せ首を傾げる。
「何だ? おかしいか?」
 その問いに頷き、僕は足元に置いていた楽譜をとり、そこに疑問を記し男へ渡した。
【態々、何故?】
 短い言葉。それでも、男に向けるには充分なものであった。
「……、…さあな」
 短い沈黙を作った男は、小さく喉を鳴らせそう呟いた。
「そう聞かれても、これと言った答えはない」
 男は肩を竦ませた。顔には笑みがのっていた。だが、その目は何故か色を失っているように僕は感じた。
 作り物の笑み。冷たいとすら感じない、無機質な目。
 ナゼ…?
 男の変貌の理由は僕にはわからず、そう訊ねてみたい気がしたが、それを伝えはしなかった。
 僕は気付かない振りをした。
 男はそれを知ってか知らずか、「どうかしたか?」と僕に訊いた。
 僕は首を振った。
 誰かが驚かせたのだろう、近くで沢山の鳩が一斉に飛び立ち僕達の上を飛んでいく。
 それに視線を向けた僕を、男が見ていた。

 どうしてだろう。
 僕はそれにも気付かない振りをした。

 まだ紅葉には早い、覆い茂った緑の葉が風にゆれる。木漏れ日がチラチラと僕の目を刺激する。
 真っ白な世界の中、男の瞳が僕を捕らえているのを、静に感じていた。

 そのほんの短い時間は、永遠のように長かった。

2002/11/15
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