# 10
日中はまだ暖かいが、夜になれば着実に冬が近付きつつある事が感じられる。街路樹が色付き始めていた。あと数日もすれば、それは足元を賑わすのであろう。
早くも沈んでしまった太陽。けれども、街中では光は大量に溢れており、夜はまだ来ない。冷たい風が駆け抜け、人々の髪をすくう。だが、それは家路を急ぐ理由にはならない。
冬の訪れまではまだ間があるこの季節は、どこか寂しげでいて、けれども一人も悪くはない、そんな不思議な感じがする。夜の帳が降りた空に星を見つける事は出来ないが、確かに存在するその光の事実だけで満足する、そんな感じだ。
乱された髪を片手で撫でると、手に冷気が纏わりついた。それは、僕にとっては心地良い感覚。日に日に寒くなるのを肌で感じるこの季節が、僕は一番好きだと思う。多くの人が自分の生まれた季節を一番好むのだと何かで聞いたことがあるが、僕も例外ではないらしい。
いつもなら、もう店の中にいて感じることが出来ない感覚を、僕は全身で味わう。
幸せと呼べるほど得るものは大きくないが、けれどもこれをそう呼びたい気分になる。
頬を撫でる風に、僕は微かな笑みをのせた。
ふとした違和感に、視線を巡らす。変わらない街、けれども何かがおかしい。
横断歩道の手前で足を止め、その事に気付く。
いつも沢山の待ち人がいるというのに、信号が青に変わっても動く人影がとても少なかったのだ。
その原因は、直ぐにわかった。
歩道に蹲った一人の青年。
腫れ上がった顔が何を意味しているのかわからないわけがない。
多分、僕がここに着く一瞬前まで揉め事が起こっていたのだろう。だから、通行人は他の道を選んだ。ワンブロックも進む必要がないところに別の横断歩道があるのだから。
僕の後からやって来た者達が、いつものように信号待ちをはじめる。人が増えて行く。
彼らは青年にちらりと顔を向けるが、直ぐに流れる車へと視線を戻す。危険はないと判断したのだろうか、立ち去る事はしない。
信号が青へと変わると、先を急ぐようにすたすたと歩いて行く人々。
僕はまた、そうして青信号を見送った。
座り込む青年も異端者なら、立ち尽くす僕もまたそうなのかもしれない。
青年にも僕にも声を掛けるものはいない。
奇妙な関係が生まれている。それに気付き僕は口元を緩めた。
青年は眉を顰めて目を閉じていた。身体が痛んで立てないのだろうか、立つ気がないのだろうか、身動きひとつしない。
僕よりも若いだろう青年は、風景に溶け込めない廃棄物のような目で周りから見られ、そして次の瞬間には無になる。存在を無視される。
それに何も感じないのか、興味がないのか、青年はやはり動かない。
そして、僕もその場から動けなかった。
心配しているわけではなく、何となく青年が動くのを見てみたくなったのだ。
ものから人間へと変わる姿を見てみたい。
自分でも気付かず、視線にその思いがこもったのだろうか。それほどまでに強かったのだろうか。
青年がふと、瞼を上げた。
視線を泳がし、そして僕を捕えると、じっと睨んできた。
側に立ち訳もわからず見下ろされているのだ、確かに怒りたくなるのかもしれないが、こんな所で座っているのだからそれも仕方がないというもの。
「…なに、見てんだよ」
吐き出されるように唇から出た言葉は、けれども呟きのように掠れていた。
目を閉じていた時の異端の雰囲気は消え去り、単なる人間がそこに現れる。無意味に他人を威圧しようと自分を誇示する雰囲気が、一瞬にして僕の中にあった興味を無くした。
しかし、逆に青年は僕の存在に関心が向いたようである。怒りをためた目は、まるで僕が彼を傷つけたように思わせるほどのものだった。
だが、もう、そんな事などどうでもいい。人間に戻った彼は、やはり、人間でしかなかった。何処にでもいる、人間でしかない。
当たり前な事なのに、僕は少し落胆している。そのことがおかしくてたまらない。何を望んでいたというのだ、僕は。
軽く口元に笑みをのせると、青年が悪態をつきながらゆっくりと危なげに立ち上がり、目の前でその強い視線を僕にむけた。
紫に腫れた口元には少量の血がへばりついていた。
「…邪魔だ、退け……」
腹部の服を握り締めている青年の手はとても白い。多分、相当身体が痛むのだろう。不躾に眺める僕をどうにかするほどの気力はないようだ。
素直に一歩引き、僕は彼に道をあけた。
顔を顰めふらりと歩きだした青年。
だが、何を思ったのか、ふと僕を振り返った。先程とは違い、覗うような視線を向けてくる。
そして。
「…お前…、あの店のサックス吹きだな」
何処かで見たと思ったんだ…。
そう呟きながら、青年は苦労して進んだ数歩の距離を戻ってきた。
客の顔などあまり覚えない僕は、そう言われても青年の顔に思うところは全くなく、対応を決めかねた。僕はもうこの青年には興味はなく、この場を去りたいのだが…。
「俺のこと、覚えているか?」
嘘をついてもどうにもならないし、その必要はないので僕は首を横に振った。
青年は何故か笑った。
それにより痛みが起こったのだろう直ぐに顔を引き攣らせたが、それでもまた笑う。
和らいだ雰囲気に僕は戸惑った。
全く覚えていないのだから馴染みの客ではないだろう。ならば、青年にとっても僕はただ行ったことがある店のバーテンにしかすぎないはずだ。なのに、何故…?
今度は僕の眉間に皺が寄った。
「会ったのは一度だけだ、覚えていなくて当たり前だ。気にするなよ」
僕が眉を寄せたのを、笑われて怒っているのだととらえたのか、青年はそう言った。
「あの時はまともな格好をしていたから、わからないか」
顔も変わっているからな。
青年のその声に重なるように、すぐ側でバタンと車のドアが勢いよく閉まる音が上がった。一呼吸の間をおくことなく、静かな、けれどもよく通る声が飛んでくる。
「何をやっているんだ、岡山」
「あ。福島さん」
青年が罰の悪そうな顔をした。僕の側にその人物がやって来る。
ちらりと見ると、その男は何故か青年ではなく僕を見ていた。どんな関係なのかと思っているのだろうか。そう思ったが、直ぐに別の思いも浮かぶ。
男の顔に覚えがあるような気がしたのだ。細身の40前後のその男は、青年と同じく店に来たことがある客なのかもしれない。相手もまた、僕に見覚えがあり見ているのだろう。
バタンと再び同じ音がし、僕は男からそちらの方に視線を向けた。
男が一人、車の側に立っていた。それは僕の知っている人物だった。
筑波直純が、じっと僕を見据え、ゆっくりとした足取りで近付いてくる。
僕の足が無意識に後ろに動こうとした。だが、それは実行されなかった。体が動かなかった。
逃げ出したい衝動に一瞬駆られたのは何故だろうか。
それはそんな疑問だけを残し、僕の中から消え去った。
僕はただ、目の前まで来る男を、じっと動かずに待った。
2002/12/04