# 11

「お前がやったのか?」
 怪我をしている青年の姿に目をやり、男は僕に向き直りそう言った。
 そんなわけはないと思っているのだろう、真面目な声とは裏腹に、顔は笑っていた。
 僕はその笑顔に向かい、コクリと頷く。
「嘘をつくなよ」
 ならば、先にそう言っておいて欲しい。
 お前でも冗談を言うんだな、と男は楽しげに口元を緩めた。一体僕をどう思っているのだろうか…。
 僕はその言葉に目を伏せた。
 何故、男がここに現れた…?
 この広い街で偶然出会う事などあり得ないことではないのだろうか。一度だけならまだしも、先日もその偶然が起きたのだから、これを必然と思ってしまうのも仕方がない。
 だが、そんなわけはない。その理由がない。男がそうしてまで僕に会う理由など何処にもないのだ。ならば、これは本当に偶然でしかないのだろうか…?
「久し振りだな。今日は店は休みか?」
 僕の小さな当惑をよそに、男は親しげな声を掛けてくる。
 先日、公園で会ったのは半月程前の事だ。それを久し振りと表現するほどの日数とは思えないが、僕はそれは流して、後半の問いかけに頷いた。
 すると、予想外の言葉が返ってくる。
「予定がないのなら、今からちょっと付き合わないか」
 あなたに、ですか?
 僕は目の前に立つ男を指さし、首を傾げた。
 その後ろを歩くOL風の二人連れがこちらに顔を向けひそひそと話して行く。この男を見ていたのだろう。
「そうだ、俺に。一杯付き合え」
 指をさされたことに眉を顰めるでもなく、男は笑う。何かいい事が会ったのだろうと思うほど、今日の男は屈託なく笑っている。いつもの鋭さを何処かに隠して。
 通りすがりの者まで魅了する男が、何故僕を誘うのか。全くもってわからない。
 ヤクザ組織については良く知りはしないし、男の正確な地位も知らない。だが、この男がその組織の中で上に近い場所にいるという事は、何度か合った中で窺えた。それは間違っていないだろう。
 そんな者が、一般人を誘ってどんな意味があるのか。
 単なる粋狂か、それとも物珍しさからか、…他には何があるだろう。間違っても利用価値など、僕にはないだろう。
 酒に誘われた。言われた事はわかるが、その理由は全くわからず、僕はじっと男を見つめた。そこにある笑顔からは、何もつかめない。…いや、機嫌がいい。ならば、相手など誰でもいいからと、たまたま僕を誘った。…などと言うことはありえるだろうか?
 僕はふと息をついた。答えなど僕にわかるはずのないものだ。それをこうも考える自分が、何だか嫌だった。だから、僕は考える事を止めることにした。
「ああ、そういえば。この二人とは会ったことがあるよな」
 男が思いついたように二人を顎で示したので、僕は側に立つ彼らをもう一度見たが、やはり思い出せなかった。だが、この男の関係者ならば、あのヤクザの集まりに出てきていたのだろうと予想はつく。
「福島と岡山だ。初めて会った時に居た奴らなんだが、覚えていないか」
 人の顔など記憶しそうにないよな、お前。
 失礼な言葉なのだろうが、事実なので何とも思わなかった。いや、例え事実ではなくとも、他人の言葉で腹を立てる事ということは、僕にはあまりない。最後に怒りを持ったのは一体いつだっただろう…。
 それよりも、予想とは違う答えに、僕は思い出せるくらい最近の記憶を辿る。
 この男と初めて会った時…。…言われてみればそう思えもするが、やはり僕の記憶からは抜け落ちている。記憶するに値しないと僕の脳はそう判断したのだろう。
「さて。ここで立っていてもなんだな、行くか」
 僕が返事をしないのを了解と取ったらしい男は、当然のようにそう言い顎で車道脇に止めた車を示した。それに反応して、福島と紹介された男が先に車へと向かう。
「岡山。お前はどうする? 随分ボロボロになっているが、事務所に行くか?」
「いえ、自分で帰ります」
 目上の者だからだろうか、先程とは違い硬い声を出す青年は、姿を見なければ怪我を負っているとは思えないしっかりした声で話した。
「そうか。だが、大丈夫か? 無理なようなら、誰かを呼べよ」
「はい…」
 青年は腫れ上がった顔で神妙な表情を作り、深く頭を下げる。
「…何があったか訊きはしないが、一つ言わせろ。
 岡山、いい加減にしておけ。お前は俺のものだという事を忘れるな」
「…はい…。しかし、迷惑はかけませんから、もう少し…」
「俺はお前が居なくなるのは困ると言っているんだ」
「…ありがとうございます」
「ああ、俺の気持ちも汲んでくれよ。
 じゃあな。明日も休んでいいよ」
 男はそう言い、僕に付いて来いと目で促し車へと歩き始めた。
 すらりとした体躯を追いかけようとし、けれども僕は後ろを振り返った。
 青年は再び頭を下げていた。
 何事か遠巻きに見ていた人々が、信号の変化に動き始める。
「保志」
 大きくもない、良く通る声が僕の耳に届く。
 道を渡る人波に紛れ、僕は車の側で立って待っている男へと向かった。
 ゆっくりと歩む僕の側を、制服姿の女子高生が点滅を始めた信号に声を上げながら駆けて行った。


 スモークガラスの中を街明かりが流れて行く。僕はそれを飽きることなく眺めていた。
 面白かった。
 自分の元へとやって来たこの状況が、可笑しかった。
 男に流されている自分が、可笑しくてたまらない。
 しかし、そう躍る心とは別に、冷めた判断をする自分も居た。何をしているのかと、自身の溜息が聞こえ、僕は疲れを覚える。
 日常から少し離れてしまった興奮と不安。
 離れたと思うのは、いつもの街を違うところから見ているからか、それとも、この男のせいなのだろうか…。
 隣に視線を向けると、男はシートに深く座り目を瞑っていた。
 僅かに入り込む街の明かりが男の顔に薄い影を落とし、暗い中でもその表情は見て取れた。何も考えていない、ただ眠っているような、無の表情。
 整った顔立ちは、目を瞑る事によって幾分隙を作っているようであり、けれども実際にはそんなものなど存在しない事も教えていた。
 僕は男から目を外し、再び窓の外に視線を移した。
 街が流れて行く。
 けれど、僕はこの流れに乗りきれない。
 …乗ってはいけない。

 目を閉じると、瞼の裏で光が揺れていた。

2002/12/06
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