# 12

 僕が働く店とは違い、少し賑やかだと言えるバーに男は僕を連れてきた。
 オレンジ色の明るい光が店に溢れている。深みのある木材で統一された店内は、一見バーと言うよりも居酒屋といった趣だ。温か味のある店は、落ち着くというよりも和むといったところだろうか。
 客層も、どちらかと言えば階級の高い者が多い、深海の雰囲気を持った僕の職場とは違い、この店には若い学生の姿もあった。見渡すだけでも広い店内だが、まだ奥にも部屋があるのだろう、その方向から微かに声が聞こえて来る。アットホームな明るい雰囲気の店。
「…保志、聞いているのか?」
 カウンターのスツールに腰掛けてもなお、珍しげに店内を眺めていた僕は、どうやら男の呼びかけに反応しなかったようだ。
「怒っているのか?」
 その問いかけに僕は首を横に振り、いつの間にか前に出されていたグラスに手を伸ばした。
 同じ物でいいかと問われ頷いたそれは、綺麗な緑色のカクテルだった。この店のオリジナルだろう。名前を聞いた限りではわからなかった、出されたそのものに少し驚く。男がこんな風な綺麗なカクテルを好むとは、少し意外だった。もっと落ち着いた酒を好んでいるのだと思っていた。
 小さな驚きをもったまま、僕はそのカクテルに口をつけた。
 アルコール度は高いが女性でも好むだろうそれは、甘味があるが、それでも爽やかなカクテルだった。単純に、美味しい。そして、その口にほんのりと残る甘味は何だか懐かしさがあった。もしかしたら、男はこれを気に入っているのかもしれない。
 意外な一面は、微笑ましさを覚えるものだった。
 僕のその感情とは違い、男は低い声で再び問い掛けてきた。
「迷惑だったか?」
 それに僕は口に端をニヤリと上げた。まさか、そんな事を訊かれるとは。
 強引なのか、何なのか、男の行動は不可思議だ。
 僕はその問いには答えず、何か書くものが欲しいと男に伝えた。カウンターに居た若いバーテンに男が紙とペンを頼むと、小さく首を捻りながらも直ぐに用意をしてくれる。
 手渡されたそれは、どちらも店のロゴが入ったものだった。小さな拘りが何だか心地良い。
【あなたの方こそ、僕と居ても楽しくないでしょう】
 僕が記した言葉に、男は軽く首を傾げた。
「何故? そう思うのなら、誘わないだろう」
【僕は、話し相手にならない】
「そうか? そんなことはない」
【喋れない】
 その文字に、男は軽く眉を寄せた。本気で僕の言わんとしていることがわかっていなかったのだろうか。
「…ああ。でも、関係ないだろう」
 意味がつかめず、今度は僕が首を傾げる。
「意思の疎通は出来るんだ、こうして。なら、問題はない」
 今までもそうだった、と男は笑う。
【面倒でしょう】
「別に、急ぐ必要はない。それとも、お前が面倒なのか?」
 その問いかけに僕は一瞬呆けてしまい、そして笑った。
 こうして文字を書くのを面倒ではないかなどと訊かれた事は今までにない。これは僕が当然することであるので、普通相手はそんなことを思わない。逆に、書き記す間が鬱陶しいと、言葉を話す者は感じるだろう。人間は自分が常に中心だ。そう、それが当然だ。
 それなのに、この男はあっさりと逆の事を言う。笑わずにはいられない。
【あなたは、変わっている】
 僕が笑いながらそう記すと、男は「どこがだ? 普通だよ」と軽く肩を竦め、そして同じように笑った。


 他愛のない話をした。ゆっくりと。
 遅い会話のテンポや、簡潔される言葉にいらだつ事もなく、男は僕が問いかけに答えるためにペンを走らせる間も楽しんでいた。僕もまた、その空気を楽しんだ。
 周りからの賑やかな声に混じり耳に届く男の声は心地良く、そして、紙の上を滑るペンの音もまた、すんなりと店内に溶けていく。男が何故この店を選んだのかわかるような気がした。沈黙もまた、一つの音なのだ。
 いくつだ、との問いかけに、25歳だと答えた僕に、「なんだ、思ったより若くはないな」と可笑しそうに笑った男は、30という年齢だった。
「学生ぐらいかと思った」
【あなたは、上にみえる】
「老けているってか。ま、よく言われるな」
 俺の場合、それは悪い事じゃない。
 グラスに口づけながら呟いた男の声は無機質のような響きだった。しかし、次に口を開いた時にはもうその色は消えている。
「なら、あの店は正社員か」
 僕は頷く。
「潰れたら、困るよな」
【どうでしょう。わかりません】
「他に行くあてがあるのか?」
 僕は首を横に振った。
【店は気に入っている、だから、なくなれば寂しい。
 だけど、困るかどうかはわからない】
「仕事は?」
【何とかなるでしょう】
 あてがあるわけでも、強がりでもない。これまでもそうだったという経験上でそう思っているにしかすぎない。
「呑気だな。世の中そう甘くないだろう」
 そう、だから、そう言われればそうだろうとしか言えない。男の言うとおりだと思う。だが、現に僕は今までにそう困ったことが無いのもまた事実で、未来を描ききちんと考える事が出来ないのも仕方がない。自信でもいい加減だとも思うが、そもそも描いていない未来なのだから、そう我武者羅にならずともいいのだ。流れるように流れて生きるまで。
 僕は軽い笑いでその話を流した。元々、店の実権を握る男にとっても面白い話ではなかったのだろう、直ぐに話題を変える。
「サックスは何処で習ったんだ?」
【中学で、1年間】
「クラブか、吹奏楽?」
 僕が頷くと、「何だか、意外だな。お前には協調性はなさそうだけど」と男がニヤリと口元を歪めた。
【その通りです。だから、1年間でした】
「揉め事でも起こしたのか」
【そんなところです。元々長く続けるつもりはなかった】
「でも、今も吹いているじゃないか」
【サックスは気に入ってます。だけど、大勢で演奏するのは僕には合わなかった】
「…そうか。なら、殆ど独学か。それにしては、上手いよな」
 ありがとうございます。
 その思いを込めて軽く頷き、僕は笑った。演奏を誉められたことよりも、濁した言葉をさらりと流してくれた事の方が嬉しかった。
 サックスは出会った時からどんどんとのめり込んでいった。自分でもそう夢中になるのが可笑しかったが、気付けば吹いてばかりいた。だから、クラブを辞めるしかなくなった時は、正直堪えた。
 辞める原因となったのは、何てことはない、喧嘩のせいで指を怪我したからだ。それまでも、傷めていたことがあり何度か注意を受けてのことだったので、僕には反論する余地もなく退部を迫られた。
 中学のクラブだ、プロではない。多くの状況に合わせるほどの技術はない。決まったメンバーで一つの音を仕上げていくのだ、一人でも欠ければ、音は狂う。
 今にして思えば、僕は幼く、それは仕方がないことだったのだと思う。退部を迫る部員も、僕に喧嘩を仕掛けてくる者達も、適当に相手をしようとしたが、それをするだけの力を僕は持っていなかった。そして、結局事態は落ちるところに落ちた。初めから目に見えた結果だった。あの冷めたガキの自分が1年間も部活を続けられた事の方が奇跡に近いとさえ言えるだろう。
 だが、あの頃はそんなガキでしかない僕には、何もかもがやるせなくなった。
 手に入れたものは、いつも直ぐに失うのだ。
 だから、大切なものはもう作りたくない、いらない。
 本気でそんな事を思った。

 けれど、僕は結局、その後も大切なもの持ち、そして失った。

 だとすると、僕はまた、サックスを失う日が来るのかもしれない。

 何かを得るのはとても大変なのに、失うのは一瞬の事だ。

2002/12/07
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