# 15

「…いらっしゃいませ……」
 調理場から戻った僕を向かえたのは、少し固い同僚の声だった。それに続いたマスターの声も、同じようにいつもとは違う色を持っていた。
 その原因を見つけるのは、とても簡単だった。
 今来たのだろう、少し騒ぎながら席につく一組の客の姿に、幾人か見覚えのあるような男がいた。一般人とは違う雰囲気。多分、先日来たヤクザだろう。
 マスターが注文を受けに行く姿を見ながら、僕は店に落ちる重い空気を感じていた。異質なものは直ぐにわかるというものなのか、今まで酒を楽しんでいた他の客達がひそひそと言葉を交わす。チラリと男達に何度も視線を走らせる者までいる。
 柄の悪い客は、この店にはあまりこない。客を選んでいるわけではないが、店の雰囲気から自然とそうなったのだろう。だからだろうか、こういう事態には客はもちろんの事、従業員もあまり慣れていない。夜の商売をしているのだ、それなりに世の中の汚れた部分も知っているだろうが自分は関係ないと何処かで思っている人物ばかり。そう、この店の店主ですら、そんなところがある。尤も、マスターの温和な性格からすればそれは当然の事なのだろうが。
 僕は小さな溜息を口から落とし、硬い表情をした同僚と目を合わせ、肩を竦めた。
 ヤクザだろうと、聖職者だろうと、所詮同じ人間でしかない。そう考える僕には、彼らは畏怖する対象でも気にとめなければならないものでもなかった。ただの客。そう、客なのだ。
 仕事だ、と言うように、僕は同僚に向かってグラスを掲げそれを磨き始める。
 だが、戻ってきたマスターに演奏を頼まれ、直ぐに中断する事となった。予定外のものだったので、「悪いね、保志くん」と口にする彼に僕は首を振り、ステージへと向かった。


 演奏を終えステージを降りると、店の雰囲気を変えた男達の一人に呼ばれ、僕はカウンターに向けていた足を止めることになった。
 先日あの集まりで店に来ていたと思われるヤクザ男が3人と、僕より少し年上だろう眼鏡を掛けた若い男と、50前後の太った男。5人の男が酒を飲み交わしている前に立ち、僕は微かに頭を下げた。
「いい演奏だった」
 一番近くにいた太った男が、しゃがれた声でそう言った。店の者達がこちらを気にしている事など全くどうでもいい事だというように、その声は遠慮も何もない大きなものだった。
「わしは音楽にはちょっと煩い方なんだが、君の音は直ぐに気に入った」
 何が嬉しいのだろうか、細い目を更に細めてにやりと笑う。そして、ここに座れというように、少し空いていたソファの隣のスペースをバシバシと叩いた。
 僕が首を横に振ると、「ま、いいから座れ」と、全くこちらは良くはないのに、腕を引き強引に腰を降ろさせられる。
「わしは地元に楽団も持っていてな」
 空のグラスを差し出され、仕方なく、まるでホステスのように水割りを作る。そんな自分の姿に軽い苦笑を落としながら、男の話は右から左へと流れていった。この男がどんな活動をしていようと、全く興味はない。だが、他の者は違うらしい。
 前に座っていた男が、「そうなんですか、へえ」と相槌を打った。見る限り、ヤクザの男達が残りの二人を接待しているかのような席だった。
 こういうところは普通の会社とあまりかわらないのだろうか、と妙に納得する僕の膝に、突然男の手が乗ってきた。いや、突然ではなかったのだろう、僕が嘗めつける視線も権力を示す言葉もさらりと流してしまっていたのだ。
「訊いているのか?」
「……」
 何をですか、と声が出せればそう口にしたのだろうが、僕には軽く笑いを浮かべるしか方法はなく、それを実行する。目の前で見た男の顔は中年オヤジ以外の何ものでもなく、それ以上の感情はない。だが、男は僕のその笑みに何かを感じ取ったのだろうか、同じようににやりと笑った。そして…。
「君が望むのなら、プロにだってしてやれる」
 わしは色々顔もきくんだ、と男は笑顔を崩さずそう言い、膝に置いた手を動かし僕の足を撫でた。酒臭い男の息が僕の鼻をくすぐる。
「君の音が気に入った。どうだ、君さえ良ければ、面倒を見てやる。喋れないとなると、不便も多いだろう。ん?」
 男の目が店に落ちる青い光を受け、暗く輝く。
「君ほどの腕だ、大丈夫、心配する事は何もない。こんなところにいるべきじゃないんだ」
 耳にささやきかけるような男のその言葉に、僕は笑顔のまま膝に乗った太い男の手に手を重ねた。
 店の客が気にならなければ、同席する者達も気にしない。それは男の地位でも権力でもなく、単なる馬鹿な性格からなのだろう。そう、少しは常識があればこんな所でこんな話などしない。
 他人にあまり興味がないとはいえ、全く何も知らない餓鬼でもなければ、多少は自分の事を知っている。周りから、どう見られるというのかを。
 話せないからと世間から離れるわけでもなく、こうして生活をしている人間は興味の対象になる。それがどれほどのものかは人それぞれで、その興味の示し方もそう。
 この男の場合、誰かの前で僕が従わせる所を見せ、そのものにも自分の力を見せつけたい、そんな計算があるのだろう。そして、ハンディを持った者に手を貸す自分に酔いたいのだ。だが、その計算は間違っている。なのに、気付いていない。馬鹿だから仕方がないといっても、相手をする僕には正直迷惑の何ものでもない。
 いや、そもそも、この男の中では、僕が話せないということは、別の意味を持っているのだろう。
 そんなどうでもいい事を思いながら、僕は男の手を持ち握り合わせた。湿った男の掌は少し不快を感じるものだったが、放り出すほどのものでもなく、更に力をいれ指を絡める。
 男が満足げに喉を鳴らした。
「そうだ、いい子だね。
 …喋れない君だが、ベッドではどんな声で鳴くのかな」
 楽しみだ。
 男の声を聞きながら、僕は握り合った手を薄暗い光の中で見つめた。

 爪が、欠けている。

 男の太い指の間を通り、その脂肪だらけの手の甲に乗った僕の人差し指の爪が少し欠けていた。
 いつからだろうか…。
 僕は男の指にはまる指輪の感触に小さな痛みを覚えながら、少し長くなった爪を後で手入れしなければと思った。

2003/01/15
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