「わしのところに来れば、心配は要らない。おいで」
　もう男には結果が見えているのだろう。無気味とさえいえるような声音を耳に吹き込まれる。
　本格的にサックスをやらないか、そう誘われた事は今までにも何度かあった。だが、ここまでふざけているものはなかった。
　僕はその顔を見、もう一度笑いかけながら、ポケットに入れていたペンを取りだして口でキャップを外し、握った男の手の甲にバツ印を大きく書き込んだ。
　あっけに取られたのか、男は僕のその行為を眺めているだけだった。役目は終わったと、僕は男の手を放す。
　しかし、そのままで終わる事はなく、男はゆっくりと顔を赤くした。
「な、何をするっ！」
　もう用はないだろうと立ち上がった僕に、男の少し震えた声が飛んでくる。それまで傍観していたヤクザ達の視線にも険が含まれた。当たり前だが、接待をしていた客を怒らされては、彼らとしても黙っていられないのだろう。
　だが、その中で一人だけその空気に染まらない男がいた。
「何をって、あなたの問いに答えを返しただけでしょう。彼は喋れないのだから、書いて意思を示したんですよ。当然でしょう」
　細いフレームの眼鏡をかけた男が、手の中のグラスに視線を落としたままそう言った。
「バツって事は、ふられてしまいましたね、芝元さん」
　おかしそうに肩を揺らせながら喉を鳴らす男に、声にならない呻き声といった感じのものを太った男、芝元が発した。
「生意気な口を叩くなっ！　若造がっ」
「僕に怒らないで下さいよ。あなたをふったのは彼でしょう。
　尤も、初めから見えていた結果ですけどね。それを読めなかったあなたが間抜けなだけ」
　肩を竦め、男はグラスに口をつけた。あくまでも自分のペースは崩さないといった感じだ。だが、周りの男達はそうもいかない。
「まあまあ、二人とも。落ち着いてくださいよ」
　ヤクザの一人が困り顔を浮かべながらそう宥めようとする。ヤクザにも色んなタイプがいるのだろうが、なんだかこの姿は少し、滑稽だ。…そう思ったことがバレたら、僕はどうなるのだろうか？
　この客達に興味はなく、早く離れたい僕は、どうでもいい事を考え時間を潰す。
　そんな僕に、なおもしつこく太った男の手が伸びてきた。
「お前も、こんな事をしてただで済むと思うなよ」
「……」
「わしの馬鹿にして…」
　大きな声で周りを気にせずにいたこの男が悪いのだ。コソコソとやっていたなら、暗い店ないだ、周りに馬鹿な事をしたと気付かれなかっただろう。そう、やはり何もかもが計算をミスしたこの男の自爆劇でしかない。
　冷やかに見下ろす僕に、男は顔を赤くし、そしてそれを黒くしていった。
　このまま怒りで血管が切れるかも知れないと思える形相。
「このわしが誰だか、どれだけ偉いかわからせて……」
「しつこい男は醜い以外の何ものでもない。
　ま。あなたは初めからそうだけど。その上救われないくらいの馬鹿だときている」
「なっ！！」
　男の言葉を遮った言葉は、彼の関心を引くには充分すぎるものだった。芝元は口を挟んできた若い男を勢いよく振り返った。そのせいで力が緩んだ、僕の腕を掴む男の手を振り解き、僕は失礼しますと頭を下げた。
「貴様っ！　ただの医者がわしに向かってそんな言葉をっ！　どうなるのかわかっているんだろうなっ！」
「あ。待ってよ、保志くん」
　若い男が自分に向かって罵声を浴びせてくる男を無視し、少し楽しそうにも聞こえる声で僕を呼んだ。
　顔を上げ真っ直ぐと見つめてくる男の視線を、僕は見返した。
　端整な顔を長めの黒髪で柔らかさを作っている、そんな感じの男。そう思うのは、芝元をからかう場面を見ていたからかもしれない。微笑を浮かべて僕を見るその姿だけならば、優しげな、温か味のある青年といったところなのだろう。
　けれども、その和らげな瞳は、それだけではないような、確かにそんな感じもするもの。
　男が僕に笑みを向けたままゆっくりと立ち上がった。
「芝元さん、煩いですよ。少しは静かにしてください」
「なっ！」
「別に、あなたに嫌われたからと言って、僕は痛くも痒くもない。それよりも、僕に見捨てられないようあなたの方こそ気をつけた方がいいですよ。
　肝臓に加え、最近では心臓も悪いとか。腕のいい医者を紹介しましょうか。もっとも今のあなたの主治医もいい腕ですけどね」
「……」
　僕には何のことだかわからないが、さほど感情もなく紡がれるその言葉は芝元の口を閉ざすだけの力があったらしい。男は忌々しげに立ち上がった青年を見上げ、そして視線を落としグラスを煽った。
「さて、保志くん」
　男が再び僕の名前を呼ぶ。
「彼…芝元さんはバツだったけど、僕ならどうかな？」
　何を考えているのか軽く首を傾げ楽しげに言い、そして、男はスッと左手を僕の前に差し出した。男のように無駄な言葉も何もなく、けれども唐突にそんな事を訊く。
　本当に、何を考えているのか…。
　身長は僕とそう変わらないが、スーツ姿から窺える体形はひとまわり小さいように思えた男の手は、女のように白く、細い指をしていた。僕は目の前のそれをじっと見つめながら考え、先程と同じようにペンを手にする。
　僕が書き込んだ印に、男は喉を鳴らせた。
「芝元さんよりも、望みはあるということかな」
　面白い、と手に描かれた三角のマークを右の指でなぞり、男はにやりと笑った。
　僕はその男の笑いに、ふと、この男の事を以前も何処かで見たような、そんな気になった。だが、それが何処だったのか全く思い出せないのだから勘違いであろうと、直ぐにその想いを否定する。もしかしたら、僕が知る誰かに似ている気がしたのかもしれない。
　だが、それでも男のことが少し気になった。からかわれたからではなく、あの視線が。

　男は帰るまで、思い出したかのように、時々その視線を送ってきていた。
　そして。

　今度は、君に会いに来るよ。
　帰り際、男は僕にそう言った。

　微笑だけではなく、低い笑い声を残して、男は店を出ていった。