# 17
どこか不思議な男と出会った次の日。
店が開く少し前に現れたのは、その眼鏡の男ではなく、筑波直純だった。
「佐久間は止めておけ」
何故か不機嫌に眉を寄せ、カウンターの席に腰掛けながら僕に向かって開口一番そう言った。
現れた男に少し戸惑いながらも慣れた従業員達は見てみぬ振りだ。いつもならこの男は周りを恐れさせるような、そんな雰囲気は作っていない。だが、今日は機嫌が悪いようでピリピリしているようだった。その気迫に僕も少し息を飲む。
「聞いているのか、おい」
発せられる声も、普段とは違い低いもの。
そんな男をじっと見つめる僕に、男は顔を顰め溜息を吐いた。
「あいつより、まだ芝元の方がましなくらいだ。いや、あの男も十分怪しいが…」
よりにもよって、何故佐久間なんかに…。
そうして大きな溜息を吐く男が、一体何を言っているのか僕にはわからなかったが、とりあえずは彼は客なのだろうと、僕はグラスを差し出した。酒ではなく、水を。
出したグラスに視線を向け、そして僕を、眉間に皺を寄せたまま、まるで不可思議なものを見るように見てきた男に、僕は軽い笑いを落とした。
「…何だ」
不機嫌そうに言う男を、なんだか子供のようだと僕は何故か思ってしまった。
【あなたでも、怒ることがあるんですね】
いつものように紙にペンを走らせ、僕は今の気持ちを言葉にした。そう、男が怒っている理由はわからないが特に気にはならず、それよりも男の珍しい表情に僕は関心を持ったのだ。
そんな僕に、男は更に眉を寄せた。
「…当たり前だ。どちらかと言えば、俺は不機嫌な事の方が多いんだが…今は関係ないな…」
そんな事はどうでもいい、と男は軽く頭を振る。
だが、僕にとってそれは少し意外なものだった。どちらかと言えば、愛想のいい人物なのだと思っていた。お喋りというほど喋らないが、無口でもない。何よりも、面白味のない僕を構いに来るのがいい証拠というもの。
自分を理解していないのか、周りが理解していないのか、それとも、僕に見せるそれが例外なのか。そんな事はわからないし、僕には知る手段もない。ただ、僕に向けられるその笑顔が嘘だとは思えず、機嫌の悪い男の姿はあまり想像できなかった。尤も、今目の前にいる彼はそれといえるのかもしれないが、これはこれで微笑ましく感じるそれでもある。
そんな事を思う僕には気付かず、男は咳払いの後、話を元に戻した。
「佐久間とはどういう関係だ?」
再び出てきた名前に、僕は知らないと首を振る。
「…知らないのか? 昨日来ただろう、あの男が」
その言葉で漸く昨夜の男達を思い出し、僕は軽く頷いた。そう、彼が言っているのはあの眼鏡を掛けた青年の事だろう。
「ったく、奥野も何を考えているんだか。あの二人をここへ連れてくるとは…」
僕に言うというより、独り愚痴るその男の姿に僕は目を細める。今日は男の意外な姿を見る日なようだ。軽く寄った眉間の皺が、何ともおかしかった。
「…笑っている場合じゃない。知り合いじゃないのなら、尚更、お前、危ないぞ」
男の真剣だが理解出来ない言葉に、僕は首を傾げる。
「昨日来たらしいあの男、佐久間は何もなく他人を気に入るような奴じゃない。自分以外の人間は利用することしか考えていない。いや、それも一部か。殆どの人間は眼中にない、そんな男だ」
人なんて、多かれ少なかれそういうものではないのだろうか。そう僕は思ったが、あえて男に伝える事はしない。ただ、じっと男を見つめ返した。何を言いたいのか、何を僕に伝えたいのか…。
「気をつけろよ、保志」
男が僕に向けたその言葉はとても簡単で、そして、何よりも難しいものだった。
「あの笑顔に騙されるなよ、口車にも乗るな。全て疑ってかかれ」
真剣な男には悪いが、全く僕には依然として話が見えない。
【要するに、あの人は危険な人だから、近寄るな。そういうこと?】
「ああ、そうだ。だが、お前が逃げても向こうがその気になれば何処までもついてくるだろう。だから、充分用心しろ」
【僕は別に、利用されるような事はないですが】
「……そうだ、それが俺にもわからない。何だって、気に入ったんだ…」
【昨夜のは単なる冗談でしょう】
「…だと、いいがな。あいつはそんな冗談は言わないさ…」
何か思うところがあるのだろうが、男のそれは僕にはわからず、僕はただ男のそんな態度に軽く肩を竦め、やはり笑みを落とした。
「だから、笑い事じゃないんだがな。本当に知らないのか、佐久間を」
笑い事ではないといわれても、笑うしかないだろう。何故か心配しているらしい男には悪いが、全く知らない人物を相手に危機感などわくはずもなく、男の忠告はあまり意味がない。
【有名人ですか】
ふざけるような気持ちで書いたのがわかったのだろう、男が眉を寄せる。
「……単なる外科医だ」
ヤクザと繋がりのある者を、単なると言えるのかどうか怪しいが、そういうものなのだろう。それよりも、昨夜見たあの男が医者だとわかり、僕の感情はそちらに向かった。
医者だから僕を気にしたのかもしれない。喋れない僕を。そう、彼に見覚えがあった訳ではなく、医者という人種に僕の何かが反応したのかもしれない。
だが、次に男が口にした彼の名前で、そんな僕の考えは一瞬にして消え去った。
僕が先程まで手にしていたペンを机から取り、男はメモの空白スペースにその名前を書き記した。
「名前は佐久間秀。秀と書いてヒイズと読む」
【佐久間 秀】
男らしい大き目なその字は、癖なのだろう、少し右上がりに書かれていた。だが、並んだ僕の字よりも綺麗なものだった。
小さな白い紙に書かれた、一人の名前。
しかし、ただそれだけのものでも、僕の目を釘付けにした。
昨夜、僕に微笑んだあの男の顔が脳裏に浮かぶ。そして、それがあの時の、あの男の姿に重なっていく…。
そう、僕はあの男を、知っている。
知っているのだ。
2003/01/15