# 18
「どうかしたか…?」
「保志くん、ちょっと」
カウンターに置かれた紙をじっと見つめたままの僕に、目の前に座る筑波直純が不信気に声をかけてきた。だが、その声に重なるようにかかったマスターの呼びかけに僕は反応を示し、彼に背を向け調理場へと向かった。
佐久間秀。
男の手によってかかれた文字が目の前でちらつく。男の声によって伝えられた音が僕の耳で鳴り響く。
だが、それがどうした。
あの男が僕の前に現れたとしても、不思議ではない。この街にいて、今まで会っていなかった方が不思議なくらいだろう。
単なる偶然。それ以上のものではないと、僕は軽く頭を振る。
元々、僕とあの男の間に繋がりなどない。
ただ過去を思い出させる要素でしか…。
だが、それが少し、問題と言えば問題なのかもしれない。
「…どうしたの、保志くん」
マスターが心配げに首を傾げそう僕に訊いた。
僕は一体どんな顔をしていたのだろうか…。
口元にいつもの笑みを乗せ、なんでもないと首を振る僕に、マスターは「あまり関わらない方が良いよ、僕が言うのはおかしいけれど…」と店へと続く扉に視線を向け、少し悲しそうに笑った。
その言葉に、あの男、筑波直純の姿を僕は思い出す。彼と話していたから、僕の顔が優れないとマスターは思ったのだろう…。
僕はもう一度、そうじゃないと言うように首を振ったが、それ以上のものを伝える事はしなかった。
そんな僕にマスターもそれ以上何も言わず、今夜の予定を伝えられた僕は、表の掃除をしてくると、店の裏から外へと出た。
店が入るビルを回りこんで向かった表通りは、赤い色に染められていた。ビルの谷間に沈む夕日。
黄昏時の街。遠くのビルに視線を向けながらも、僕の目は眩しさに何も捉えられはしない。いや、細めた視線の先には、オレンジの光だけ…。
だが、それは直ぐに紅い色へと変わっていく。
脳裏に浮かんだ光景は、何年も前の事だと言うのに、色褪せることなく鮮やかな色彩を僕に見せた。
紅い、紅い、真っ赤な光景。
小さな部屋の中で、その紅が一面に広がっていた。
自分と同じ生き物から溢れ出るその紅は、僕自身をも染めていた。何もかもが、その色で染められていた。
尽きる事はなく、永遠に広がっていくかのように…。
パタン。
そんな乾いた音に、僕は視線を足元へと走らせた。
手の中から滑り落ち、地面に転がった箒。それをゆっくりと体を折り曲げて拾い、僕は目的を思い出したアンドロイドのように淡々と店の前を掃いた。
記憶が呼び起した光景は、あの時と同じように、叫びだすことも、崩れ落ちる事もなく、ただ乾いた感情を僕に覚えさせた。
そして、そんな自分自身を、薄情だと思う。…虚しい人間。
血の海と化したあの小さな部屋。
笑い声から悲鳴へ、そして無音となっていく、そんな時の流れは確かにあったのに、止まってもいたようなおかしな空間。
もう何も映さない目で僕を見つめる、彼の真っ黒な瞳。
咽返るような血の臭いよりも、火薬の臭いが鼻についた。
耳の奥に響く銃声。だが、その音よりも、彼の声が頭に響いた。
――翔…。
僕の名を呼ぶ彼は、もう、いない。
全てをリアルに覚えているのは、それほど衝撃的なことだったからだろう。だが、忘れてしまいたいと思ったことはない。
しかし、忘れてはならないと、強く意識した事もない。
夕日が姿を隠してもなお、まだ光は消えない。
けれども、確実に闇は濃くなり始めている。夜が始まる。
僕は帳が折り始めた空を仰ぎ、小さく息を吐き、そして捕らわれていた過去を振り切るように、店へと続く扉を開けた。
開店準備は整っており、綺麗に並べられた机や磨かれた床が、店の淡い青いライトを受けて輝いていた。見慣れた光景。そして、体に馴染んだ空気。
カウンター席に座った男が、入口から入ってきた僕を振り返り見る。
ここが、僕が今居る場所だ。
過去のあの場所ではない。この場所が。
少なくとも、僕は、僕自身は、そう思っている。
あの時に、戻る気はない。戻りたいとも、思わない。
2003/01/15