# 19
店が開いてもなお、筑波直純はカウンターに居座った。
働く僕に声を掛ける事はないが、僕としてはこの男が居るというだけで、少しいつもとは違う気分になる。仕事に差し障りがあるほどでもないが、男を気にせずにもいられない。そう、気になるのだ、とても。
少し非難めいた目でチラリと向けられる視線。不服そうに落とす溜息。そこには何も映らないような目で、興味なさげに店を見渡す姿。
正直、全てが、鬱陶しい。
これは僕だけではなく他の者もそうなのだろう。男を倦厭している。
普段周りにどう言われているのかは僕の知るところではなく、僕の前ではいつも静かではあるが愛想が良いと言える男のあからさまなこの態度。
それほどまでにあの男、佐久間秀が嫌いなのだろうか。それとも、他に理由があるのだろうか…。
僕には、当たり前だが男の考えていることなど、わからない。
何にしろ、今ここにいると言う事は、僕が思うほどこの男は忙しくないのかもしれない。
いつものように演奏を済ませた後、休憩に入り控え室に居ると、今夜はいつもと違う雰囲気を纏う男、筑波直純が入ってきた。今頃店内では、男が席を立った隙にと、全員がほっと息を吐いているのかもしれない。
周りをそんな風にしている事など気にしないのか、それとも気付かないのだろうか。やって来た男は渋顔のまま、煙草を燻らせていた僕を見据えた。そして、ふと息を吐き軽く頭を振る。
一体何なのか。溜息をつきたいのは、こちらの方だろう。
男が後ろ手に扉を閉めると、二人きりの部屋には静寂が落ちた。
「…お前と居ると、疲れる」
呟くようにそう言い、男は椅子に座った僕の横に立ち壁に凭れた。
言われた言葉に、僕はついていけない。
「俺にも一本くれ」
普段は吸わないから持っていないという男に、テーブルに載った煙草とライターを顎で示す。男は少し肩を竦めたが文句を言うことなく、自ら手を伸ばして少しくたびれた煙草を口に運んだ。言葉とは裏腹に、その仕草は慣れたものだった。
男は同じように壁に凭れると、紫煙と同時に溜息を吐き出した。僕は上げた視線を落とし、自分の足元に目をやった。けれど、側の男が気にかかり、そのまま目を横に動かす。綺麗に磨かれた男の黒い靴が視界に入る。
「ホント、疲れるよ…」
再び落とされた呟きは、非難の色はないが、真っ直ぐと僕に向かっているものだった。
そこで漸く、自分が言われているのだと実感する。…以前に言っていた言葉とは、正反対のもの。
楽しいと、落ち着くといったのは、それほど昔のことではない。つい、先日の事。
だが、人の心を変えるのに、一瞬の時間も要らない。男が逆の事を感じるようになったからと言って、不思議ではない。
疲れるのなら、来なければいい。それをしているのは男であって、僕ではない。
怒りではなく、呆れに近いだろう。いや、そんな感情自体存在しない、ただの事実でしかない。そう、僕が嫌なら、来なければいいだけのことなのだ。
僕はそう思いながら、落とされた言葉を吹き飛ばすように、少し強く紫煙を吐き出した。唇から零れるその息の音は溜息にしか聞こえない。
何も言葉にすることはない僕は、ただ目の前の空間を見つめ煙草をふかす。
白い煙が、空気に溶けていく。
誰かが隣の調理場に入ってきたのだろう。バタバタと少し騒がしい音が響いてくる。
だが、直ぐにそれが収まると、また静寂が落ちる。
この部屋はこんなに静かだっただろうか。
そう、いつもは耳を済ませずとも、店や調理場の音が届いてくるというのに…。
男と二人きりだからだろう。空気がいつもと違うのだ。そう思いだすと、何故か少し胸がドキリと高鳴った。見慣れた狭い部屋が、何だか知らない部屋のような気もしてくる。
全てから切り取られたような空間。
だが、それを寂しいとも嫌だとも思わない。何とも思わないのは、側に男がいるからだろうか…。
「……俺にはお前が何を考えているのかわからない」
長い沈黙の後、男は短くなった煙草を灰皿に押し付け、ふと息を吐いてそう言った。
「他の奴ならそれで終わる。だが、お前の場合は、それが気になる。
わからない事を気にするから、疲れる。でも、止められない」
淡々とした声で、男はそんな言葉を口にする。
そして…。
「なあ、保志。…俺はどうすればいい?」
僕は落とされたその質問に、顔をあげることは出来なかった。
再び俯いた視界に、男の靴が入る。
もう夜だというのに、今日一日を掃いて過ごしたのだろう、男の黒い靴は、汚れていない。淡い光を受け反射するほど、くたびれた様子は何処にも見せない。
それは、この男そのものを現しているかのようだ。
疲れるといいながらも、その精神は疲れてなどいないだろう。
だが、僕は違う。
僕は、疲れている。
今夜はとても、疲れている。
僕の前に現れた、あの男。
記憶が見せた、あの光景。
今夜だけではない。
全てに、僕は疲れている。
2003/01/22