# 20

「気になるんだ、お前のことが」
 男の言葉に目を伏せ、視界から見つめていた黒い靴の姿を消す。
 僕はそのまま立ち上がり、瞼を上げて捕えた灰皿に煙草を押し付けると、部屋を横切った。小さな部屋を動く僕を、男の視線が追いかけてくる。
 自然と溜息が出そうになるのを、ゴクリと飲み込む。
 紙とペンを取り、再び壁に凭れて立ったままの男の隣の椅子に、男から僕の手元が見えるように深く腰を掛けて座る。大きな紙を半分に折って膝の上に置き、僕はそこに文字を記す。
 男が覗き込みそれを追う視線に、僕は微かな緊張を覚えた。
【珍しいものを見て気にかけるのは当然です】
 僕は卑屈になっているわけではなく事実を述べているだけなので、躊躇う事はなくペンを走らせる。だが、上から見ている男の視線が重く圧し掛かってくる気がした。
 しかし、やめる気はない。
【僕が声を出せないから、あなたは気になっている】
「…違う」
【本当に? 意識した事が全くないといえますか?】
「…いや、確かにそうだ。だが、今はそんな事は気にしていない」
【慣れましたか】
「そういうわけじゃないんだ、保志。俺は、お前自身が気になるんだ」
 喋れないからと、気にかけているんじゃない。
 その言葉に、僕はいつもの笑いを顔に乗せ、チラリと男を見た。
【喋れないのが僕ですよ】
 僕を見下ろす男が、微かに眉を動かした。
「それだけじゃないだろう」
【そんなことはない。僕は声が出せない以外では、何処にでもいる普通の人間です】
「……」
【僕の場合、他の人間よりわかり合える要素が少ない。だから、気になる。ただそれだけ。疲れるのなら、気にしなければいい】
「……」
 男の沈黙が、空気を重くしたような気がした。
 だが、僕は間違ったことは言っていない。非難されるいわれはない。
 男がどうすればいいのか、僕にはわからないし、僕が決めることではない。ただ、事実をきちんと見れば、答えなど簡単に見えてくるだろう。そう思ったまでのこと。
 僕という、少し周りとは毛色の違う人間を知り、それに興味が多少いってもおかしくはない。だが、そんな興味など長続きはしない。いつか飽きる、いや、慣れる。
 ハンディを持っているといっても、その自覚が低い僕に同情も哀れみもそう多く持つ事は出来ないだろう。かといって、面白味のある人間ではないので、態々付き合おうなどとも思わないだろう。

「…俺は迷惑なのか?」
 沈黙を破り男が言った言葉に、思わず僕は首を傾げた。何故、そんな質問をするのだろうか。そう思いながらも、僕は首を横に振る。
【いいえ。思ったこともありません】
 そう記した僕に、今度は男の低い笑い声が落ちてきた。
 訝しげに見上げた僕に、男は口角を上げたにやりといった笑いを向け、壁に凭れたまま膝を折りその場にしゃがみ込んだ。
「やはり、お前はわからない奴だ」
 椅子に座る僕と目線の高さを合した男が、そう口にしながらも、実に楽しそうに笑う。目の前の笑顔は、今夜見せた不機嫌さを隠すような、いつもの雰囲気を持っていた。
 だが、僕には男が笑う意味がわからず、自然と眉間に皺がよる。
「俺は振られたわけじゃなさそうだな」
 一体何の事を言っているのだろうか…?
「おかしい奴だと思っていたが。面白いと言うより、ボケているんだな、お前は」
 天然か、そう言いまた喉を鳴らす。だが、何を指して天然だと言っているのか、僕にはわからない。一人で何に納得している。
【何の話?】
 男が僕が書いたその文字を見て、…何故か優しげに微笑む。
「わからないのならいい」
【なら、いい】
 そんな僕の関心が薄い返答にさえ、男は喉を鳴らす。何なのだろうか、この変わりようは。本当にわからない。
 だが、嫌ではない。いつものように男が戻った事が、おかしな事だが嬉しくさえ感じる。男の言葉が全く気にならないかといえば、そうでもないのだろうが、それでも、無理に答えを聞きたいものでもない。
【それで、あなたはどうするんですか】
 向けられる言葉はわからないが、男の言うように気にする事はやめ、僕は逆に質問をする。どうすればいいのか、答えは出たのかと。
「そうだな。ま、どうもしないな、当分は。今のままだ」
 聞いた相手が悪かったようだ。答えをくれない。
 男はそう言って肩を竦め立ち上がった。
 僕に訊く方が間違っているんです。
 僕はそう小さな溜息をつき、男と同じように肩を竦めた。
「俺が嫌になったら言え。ただし、早くしないと、戻れなくなるかもしれない」
 噛み合わない会話というか、先程と同じく意味がわからない男の言葉ではあったが、落とされる笑みのお陰だろう、それも不快なものではなかった。
 子供のような笑顔だと、僕はその表情を下から見上げ、目を細めた。
 そんな僕に男は笑いかけ、そして、ふっとその表情を消した。

「保志、佐久間には気をつけるんだぞ」
 一瞬にして、真剣な顔になった男は、僕にあの男の名前を落とす。

 佐久間秀。

 一体あの彼は、この男に何をしたのだろうか。

2003/01/22
Novel  Title  Back  Next