# 21
今夜男が何度も口にする名前の持ち主である、医師だというあの青年とは、これといった関係はない。
全く知らないわけではないが、知っていると言うほどでもない。僕に注意を促す男は、知らないといった僕の言葉を信じてはいないのだろう。いや、信じていたとしても、何かがあると思っているのだろう。だから、何度もその名を口にする。
男のそれは、ただの勘なのだろうか。それとも、何かを知っているのだろうか。
僕にはそれを知る術はない。
佐久間秀。
僕の友人だった男の兄の友人。
そう、ただ、それだけなのだ。会った事があるというよりも、何度か見かけた事があるといった程度のもので、あの頃は会話を交わしたことはなかった。視線を合わせた事すらなかっただろう。昨夜が初めて。
あの時の青年が医者となっている事を僕が知らなかったのは当然で、向こうも僕がここで働いている事など知らなかっただろう。本当にそんな関係と言えるほどのものはないのだ。昨夜も偶然の出会いでしかない。
だが、それだけで終わりはしないのかもしれない。
言葉を交わしたことすらなかった彼が僕を覚えている。それは何を意味するのだろうか…。
「お前は笑うが、あいつを軽く見ない方がいい」
筑波直純の真剣な声に、僕は目を伏せた。
男の言葉に、僕は段々と現実を見つめはじめている。流れるようにと思いながらも、未来を読もうとしている。過去の出来事、流れた時間、そして今。導き出される答えは、そう多くはない。
「…あいつが何をしているか、詳しい事は言えない。堅気が訊いていいものじゃない…そう言えばわかるだろう」
ヤクザと関わりをもっているのだ、医者と言う職につくとはいえ、それなりの事をしている。そういうことなのだろう。
あの頃優しげに笑っていた青年が、今そんな怪しげな立場にいるというのは信じられない、と本来は思うものだろう。昔の姿を知らずとも、昨夜見た彼からもそんな闇に染まった部分は感じられなかった。
だが、僕にはそれはそう意外なものではなかった。むしろ、そうなっているのが納得出切るものさえある。
あの時まだ大学生だった青年が、この数年をどう生きてきたのかは知らない。だが、多分いつでも昨夜のように笑って過ごしてきたのだろう。
きっとその横には、あの男の姿もあるはずだ……。
ふと頭に浮かんだその男の姿に、僕は軽く顔を顰めた。
【あの人は、また来るといいましたが、単なる挨拶でしょう】
そんなはずはない。
その事を確信しながらも、僕はそうペンを走らせた。もし、声が出せたとしても、僕は心の内を見せず、淡々と同じ言葉を男に語るのだろう。
「そうは思えない」
僕もそう思う。だが、しかし…。肩を竦めて笑うのは、何故なのか。そんな自分がわからない。
関係ないと言いたいのなら、そう言えばいいだけの事。なのに、ただ、あの男を知らない振りをするのは、話を発展させたくないからなのだろうか。
何故か気にする男に気遣わせないためか、それとも、僕自身が知られたくはないのか…。認めることにより、それが直ぐに実現しそうな気がして、…怖いのかもしれない。
僕は自分に少し迷いながらも、いつもの笑いを顔にのせ、軽く頭を振る。自身で見えない心は、考えてもどうにもならない。
「あの男は必ずくる、そういう奴だ。俺は、今日来ると思っている」
男の溜息が部屋の空気にとける。
今夜の男は僕を惑わす言葉ばかり吐く。真面目に受け止めていないような僕の態度が更にそれを煽っているのだろうが、それにしても執拗だ。
あの眼鏡をかけた男が今日この店に来るのだと、そう思っているから、この男は今ここにいるのだろうか。
そこまでする男に驚き、そして、少し、その理由が気になる。
あの男が危険だから。
だが、だからといって、この男には関係ない。僕自身のことだ。
しかし、そうではないのかもしれない。それだけでは終われない何かがあるのかもしれない。
一体、あの男とどういった関係だというのだろうか。僕が彼と関わる事によって、この男に負担を与えるのだろうか。
だが、たとえそうなったとしても、僕は逃げる事はしないだろう。
僕が逃げなければならない理由は何処にもない。
何より、僕はあの男を、それほど気にはしていない。
それよりも。
それよりも、問題なのは、彼の友人である男だ。今なお彼らの関係が続いているのなら、僕は近いうちにその男と会うことになるのだろう。
その時、自分がどんな風になるのか、僕は予想出来ない。
「休憩は終わりか」
立ち上がった僕に、男はそう訊いた。それに頷きながら、使ったペンを片付け、紙は丸めてごみ箱へと投げる。
弧を描いて、吸い込まれるように小さな黒いごみ箱に姿を隠した紙。一瞬、何故か喪失感を味わい、僕は部屋の隅をじっと見つめた。
「行こう」
男の声に振り返ると、真っ直ぐとこちらを見る目とぶつかった。少し離れて男を見、この部屋にはあまり似合わないことに気付く。薄汚れた殺風景な部屋には、その姿は強すぎる。
「どうかしたのか?」
その言葉に首を横に振ると、男は軽く笑い体の向きを変え、僕に背中を見せた。ドアをあける男の後を追い、同じように続いて店へと戻る。
小さな部屋に作り出されていた、二人の、二人だけの空気が、店へととける。
それが少し、ほんの少しだけ寂しいと僕は思った。
男の背中から視線を落とした僕の口から、小さな息が漏れる。
だが、しかし…。
店内に入り、男は直ぐに歩みを止めた。
それに訝しみ顔を上げた僕の目に、男の硬い表情が映る。その微かな緊張感に、僕の心にあった感傷も一瞬にして消える。
男の視線を追い、その先にあるものを確認し、僕はその表情の理由を知る。
佐久間秀。
昨夜のあの男が、そこに居た。
笑顔でカウンター席に腰掛けたその姿は、何者かわかったからだろうか、あの頃とあまり変わっていない気がする。
「…やはり、来たな」
その言葉は、僕に言ったというよりも、口から漏れてしまったというような、微かな呟きだった。
その声に、僕は側に立つ男に視線を移す。
男はまだ、真っ直ぐとカウンターを見ていた。あの男を。
それは、僕に向けられるものとは違う視線。
だけど、男の全てを見透かすような、少し色の薄い目は、僕を見るものと同じもの。灰色がかった瞳は、色んな姿を持っている。
僕が見る姿が、全てではない。
それと同じように、僕も、男が見ている姿だけの人間ではない。
人は、色々な顔を持っている。
2003/01/22