# 22

「保志、ここを頼むよ」
 カウンターの中に居た同僚が、店内に戻った僕に気付き声を掛けてきた。それに気付き、 佐久間秀がこちらに視線を向けてくる。
 優しげでいて、何も見ていないような、透明な視線。
 僕はそう感じたが、隣に立つ男は違うのだろう。
 筑波直純からは、少し緊張しているような、そんな雰囲気が感じ取れた。
 僕はそんな彼に視線を向ける事はせず、そこを離れる同僚に変わりカウンターに入った。僕の動きをどこか楽しげに追い、「こんばんは」と声をかけてきた青年に、軽い会釈を返す。
 ダークスーツに、薄い灰色のシャツ、濃紺のネクタイ。屈託のない笑顔を浮かべたその姿は、一見社会人になったばかりの若者を思い浮かばせる。だが、店の光により反射する眼鏡が、ちらりと別の顔を見せている気もした。
 そういえば、昔は眼鏡をかけていなかった。
 細いフレームの眼鏡は、少しこの男の雰囲気を変えているのかもしれない。すぐに思い出せなかったのは、記憶が奥底にしまわれていたというよりも、纏う雰囲気が変わっていたからだろうか。
 思い出せば、外見は過ぎた年月ほど代わりを見せていないという事がわかる。この笑顔も。けれど、それでも確かに時は流れたのだ。変わっているのが当然の事…。
 僕を見て微笑む男は、一体どう変わったのだろうか。小さな興味がふと浮かぶ。
 年を取りながらも子供のような笑顔を作る男。けれども、その歪は少し大きくなっているのかもしれない。無邪気な振りをするには、大人になりすぎたのかもしれない。
 あの時は完璧だったとしても、それを維持する事は難しく、不完全なものになってしまう。そんなものがある。逆に、歳月をかけることでより一層隠す事がうまくなるというのもあるだろう。
 この男は、何を得て、何を失っているのだろうか。
 そして。僕はどうなのだろう。
 僕も、どう変わっているのだろうか。
 そんな疑問も浮かぶ。
 自分自身では見つけられないそれも、この男ならわかるのかもしれない。
 特に知りたいわけでもないが、僅かとはいえ共通の過去を持つ男を前にして、僕はそんな感情を持った。

「早速、来たんだけど…、今日は君は居ないのかと残念に思っていたところなんだ」
 休憩だったのかな、良かったよ。
 男の言葉に頷く僕の視界に、筑波直純が渋い顔のまま近付いて来る姿が入る。
 座った男に断りを入れる事もなく、無言でその隣の席についた男は、溜息を吐いた後、何でも良いからと酒を注文した。
 僕に笑顔を向けていた青年は横を向き、「こんばんは」と僕に向けるものと同じ笑みを男にも向ける。だが、声をかけられた男は、先程までとは違う低い声で言葉を吐き出した。
「何をしに来た、佐久間」
 聞いた事がない男の声は、逆らう事など許されないような絶対的なもの。
 けれども、微笑む青年はそんな冷たい言葉を素直にそのまま受け取る事はしないだろう。
 そう思った僕の考えは当たっていた。笑顔を崩さず、彼は小さく首を傾げた。純粋な子供のような、疑問を現す仕草。だが、言葉に可愛げはない。
「何をって、どんな理由が欲しいの。君を納得させられるもの?
 でも、そんな必要はないだろう。別に、酒を飲みに来たでも、保志くんの顔を見に来たでも良いよね。お好きな方をどうぞ」
 何なら、他の理由を作ろうか。
 軽く喉を鳴らし、眼鏡の奥の目を細めて笑う。
 僕は眉間に皺を寄せた男の前にグラスを置き、彼らの前から少し離れて仕事を始めた。仕事中なのだ、二人に構ってなどいられない。
 けれど、会話は耳に入る。
 それも当然の事。先程まで空気を緊張させていた男が戻ってきたのに気付き、客達もまた、注意を払い様子を窺っているのだから。
 営業妨害もいいところだなと、会計を済ませ出て行く客の背を見ながら僕は軽い溜息を落とす。だが、当の本人はそんな事は気にしないのか、気付いていないのか、相変わらず眉を寄せている。自分がどれほど周囲に影響を与えるのか、本当に気付いていないのかもしれない。だからこそ出来ることなのだろう。
 尤も、相手はそれを承知で行動をとっているのだろう。その笑顔すら全て計算によるものだ。
「この店には、もう来るな」
 男の渋面は、冷やかにというような余裕のあるものではなく、どうにも出来ない不機嫌さのようである。大人である彼が見せる子供のような表情。
 そして、男にそんな態度を取らせる相手は、笑みを崩さない。実に楽しそうに笑い、言葉にでさえも余裕を見せる。
「どうしてかな?」
「知る必要はない」
「聞き入れる必要もない、ってね」
 指先でグラスに触れながらそう答えた男に、眉を寄せる男。二人とも見目の良さとその異色の組み合わせで客の注目を引いている。なのに、この会話…。
 僕は視線を手元に落とし、細いシャンパングラスに静かに透明の液体を注ぎこみながら、心の中で微かに笑いを落とした。微かに揺れながら真っ直ぐと水面に向かって上っていく小さな気泡に目を細め、一呼吸の間を置き、客に注文の品を届けるようフロアーに居た同僚にそれを渡す。
 微かな笑いを付けて。
 そんな僕に、同僚は軽く眉を上げたが何も言わなかった。関わる事を拒否したのか、特別な意味と取らなかったのか。
 機嫌がいいなと問い掛けても、僕が答えを返さないことを確信したのかもしれない。
 そう、意味などないのだ。何となくだが、少し気分が高揚している、ただそれだけ。
 でも、それは少し、サックスを吹く時の気分に似ている。楽しいというものかどうかはわからないが。

 少し、興奮しているのかもしれない。
 二人の男に。

 日常とは言えない、この空間に。

2003/01/31
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