# 24
「自己紹介がまだだったね。…いや、もう彼に聞いているんだろうけど」
男が去った扉を見ていた僕に、佐久間秀はそう声を掛け、僕の視線が自分に向くのを待つように言葉を止めた。
注がれる視線に、顔を向ける。
眼鏡越しの真っ黒な瞳は、口元にのった笑みほど、親しみは持っていなかった。だが、不快ではない。むしろ、僕は好ましくさえ思う。
「佐久間秀、K大学病院の外科医。歳は30歳。独身、結婚歴はゼロ、予定もなし」
生徒を相手にする教師のように、ゆっくりと一つ一つ丁寧に、男は言葉を口にする。
「趣味は、残念ながらつまらない男でね、これといってない。特技も、人見知りをしないことぐらいかな」
こうしてみると、紹介するほどのものはない人間だね、僕は。
今更ながら確信したというわけではなく、けれどもめげているわけでもなく、ただ単に書かれた文章を読んだという風な色のない言葉を付け加え、男は軽く肩を竦めた。
そして。
「さて、保志くん。
僕は少しの間でいいから、君に話し相手になって貰いたいんだ。駄目だろうか? 今から時間を作れないかい?」
もちろん、仕事をしながら、こうして相手をしてくれてもいいけれど。
そうして僅かに軽く首を傾げた男に、僕は掌を見せた。
少し待ってください。
その仕草の意味を受けとり頷いた男に、僕は一礼をし、カウンターを離れた。
休憩が欲しいと突然要求した僕に、マスターは少し驚きながらも、あっさりと頷いた。
白のシャツに黒のベストとスラックスという制服姿のままではあったが、店内に戻ると、僕は躊躇うことなく佐久間秀の隣の席に腰を下ろした。そんな僕の姿にカウンター内にいた同僚は軽く眉を上げたが、声をかけることはなく、水の入ったグラスを出してくれた。
「悪いね、無理を言って。…出るかい?」
男の言葉に僕は軽く眉を寄せる。その必要がある話なのだろうか…。
「僕は別にいいけれど。君の職場だからね、ここは」
少し店を見渡しながら口にする言葉は、どこか楽しげなものだった。だが、何を指しているのか、僕に気を使っての事か、それてとも何かを企んでの事か、男の短い言葉だけでは、そこまではわからない。
僕はその言葉に首を軽く振り、ここで良いと指でテーブルを叩く。例え何を言われようとも、僕は別に構わない。
「そう。そうだよね、仕事中なんだからね。ゴメン。
…ね、仕事は楽しい?」
僕が頷くと、まるで自分の事のように「良いね、それは」と微笑む。
「でも、喋れないのは不便だろう。不自由も多いだろうけど、大丈夫なの?」
頷く僕に「昨日の馬鹿な客は、ま、特別か。災難だったね」と肩を竦める。
「手話は出きるの?」
僕は首を振り、ポケットからペンと小さなメモ用紙を取り出しテーブルに置いた。
「そうか、なるほど。確かに、この生活なら手話など出来ても意味がないか」
相手がそれを知らなければ同じ事だよね。
そう笑った後、男は言った。
「巧く生きているね、君は」
なるほどね、と呟き、手元のグラスに視線を落とすと、男は肩を揺らした。
それは表情とは違う、男の心の中の何かが起こさせたものだろう。穏やかとはいえない、明確な別の意味があるようなものだった。
だが、それも一瞬で姿を消す。
再び僕を見た男は、ただの笑みを浮かべるだけのものだった。
「ゴメンね、不躾に聞いて。
君は覚えていないだろうけどね、僕は昔君と会った事があるんだよ。だから、気になってね」
にこりと微笑む目を受け止め、僕は深く頷いた。男が少し目を大きく開く。
「…覚えているの?
なんだ、そうか。なら、先に言ってよ。お互い話をした事もなかったからね、まさか、覚えているとは思ってもみなかった」
なんだか、嬉しいね。とても。
そう言って笑う男の姿は、本当にそれだけのものでしかない。別の感情など、何処にも見えない。
だが、それがかえって僕に違和感を与えるのだ。いや、確信か。
この笑みをよく目にした。あの頃は、いつもこうして笑っていた。あの男の隣で。
目立つ存在だったこの男を僕が知っているのは何ら不思議ではない。だが、逆に単なる餓鬼でしかなかった僕を知っているというのは、意味があっての事だ。そう、偶然で覚えるほど、この男は他人を見てなどいないのだから。
「よく覚えていた、って言いたいのかな?」
間違ってはいないが、正確でもないその言葉に、けれども僕は頷いた。
「眉間に皺がよっている」
だからわかったのだという様に、クスリと笑いながら僕の額を指で軽く突く。
少し斜めに腰掛、互い向き合いながら、けれども僕達は別のものを見ている。僕は、昔のこの男を。そして、男は、僕ではなく、あの少年を…。
予想でも何でもなく、これは事実だ。
「あの頃とあまり変わらないね、君は。僕も人の事をいえないけれど。
君は、いつも淡々としていた。でも、時々、優しそうに笑っていたんだよね」
その笑顔に惹かれたんだ。
なんてね、と肩を竦めて、言葉を戯れに変える男は、直ぐに真剣な色を目に浮かべる。いや、真剣に見えるような目。
「でも、見ていたのは本当だよ」
僕はその言葉に、軽く笑った。いつものように、人を馬鹿にしたような、そんな笑いだったのだろう。男が軽く眉を動かす。
「嘘じゃないよ」
その言葉に頷きながら、僕はペンを走らせた。
嘘じゃない。そう、男の言葉は全て、嘘などではない。真実ではないが、嘘でもないのだ。
【あなたは、僕ではなく、彼を見ていた】
そう、あの頃も、この男が眺める対象は、僕ではなかった。僕の隣にいた、あの少年を見ていた。
「……」
【彼を見るついでに、僕の姿が目に入っただけでしょう】
書き記した文字に、他意はない。けれどもそれは、自分でもわかる、小さな怒りを含んでいるようなものだった。決してそんなつもりはないのだが、男もそれを感じ取ったのだろう。
沈黙が落ちる。
だが、それはとても短いもので、直ぐに軽い笑いによって掻き消された。
「そうだよ。だって、彼の事は君を知る前から知っていたんだからね、当然だよ。彼の友達だから、君を知った。でもそれはきっかけだ。気になっていたのは本当だよ。
信じてくれないかな。それとも、何か誤解されているのかな?」
男が首を傾げ、そして目を細めた。
「もしかして、僕は嫌われているのかな? 恨まれている?」
その言葉に僕は首を横に振る。
まさか、だ。そんな感情は何処にもない。いや、感情すらないのかもしれないと思えるほど、僕の中には何もない。
ただ。
彼は、もうこの世にはいないあの少年は、この男を、男が口にしたように思っていたのだろう。
その思い出だけが、今僕の心に、思い出としてある。
「彼…筑波は、君の事が気になるらしいね。君がとても大事なようだ」
ふと思い出したかのように、男は突然話題を変えた。だが、それは計算なのかもしれない。
「僕は彼には嫌われているが、君は好かれたようだね、保志くん」
大変だね。
そう言い、男は実に楽しげに肩を揺らせた。本心からのそれは、言葉の意味はわからずとも、先程まで見せる姿よりも好感が持てるものだった。
筑波直純が僕を気にはしていても、大事であるかどうかなどわからない。確かに、この男は嫌われているだろうが、僕が好かれているかどうかなど知らない。まして、それが大変な事かどうかも。
この男には何かが見えているのか、戯言か。僕には判断出来ない。
そもそも、筑波直純に関しては、謎ばかりなのだから。
いや、誰に対しても、そうだろう。僕は、あまり他人の事に考えを使わない。わからない事を深く考えない。だから、謎は減っていかない。
だが、この男は別だ。
僕は男の言葉と笑顔と、そしてその裏にあるものを見ている。
今夜、はっきりとわかった事が、ひとつある。
僕は、この男、佐久間秀が嫌いではない。
2003/02/12