# 25

 喋れなくなったからといって、特に不便を感じた事はない。声はでなくとも意思の疎通は出来るのだから、問題はあまりないのだ。特に、他人と関わる事が薄い、僕には。
 元々会話は得意ではなく、自分の声がなくなったことにさえ、僕はすぐには気付かなかったくらいなのだから。


 寒さを増し始めた空の下で、僕は足を止め空を仰いだ。楽器ケースを持つ右手が、空気の冷たさに固まってしまっている。
 学校帰りの制服姿の若者達が、はしゃぎながら立ち止まった僕を追い越していった。
 彼等は、空に太陽がある事を知っているのだろうか。
 見上げた空には、薄い雲に覆われ、ただ白く光る、眩しくもない太陽があった。
 今日は、夕焼けは見れないだろう。
 そんな事を思いながら、僕は再び足を運び始める。


 ふと空を仰ぐようになったのは、いつの頃からだろうか…。
 気付けば僕は、声をなくした変わりに、そんな癖をつけていた。


 病院に入院すると同時に、何人もの人間が僕に話し掛けた。
 一番初めは医者だったのだろうが、覚えてはいない。僕が覚えているのは、警察の人だ。父親とそう年齢の違わない、中年の私服姿の刑事だ。顔は何となく思い出せるような気もするが、声は覚えてはいない。いや、僕の耳には届いていかなかったのだから、思い出せる筈がない。
 警察官も医者も、両親の声さえも、僕には全て雑音として耳を流れていくだけだった。
 そのノイズは、数日続き、少しずつ言葉として僕の中で意味をなしていった。だが、理解したところで、それを返さなければならないという働きは起きなかった。返事をするなど、考え付きもしなかった。
 いつの間にか、僕に話し掛けるのは、一人の医者になっていた。その医者は、少し神経質そうな顔をした、眼鏡をかけた若いと言える男だった。後から、精神科医である事を知った。
 その頃の僕は、何故自分が病院にいるのだろうかと考えていた。怪我などしていないのだから、早く出て行きたいと。
 しかし、その思いも、誰かに伝えるほど強いものではなく、何もかもがどうでもいいというように一日を過ごしていた。ただ、窓から見える空を眺めていた。
 それは、四角く切り取られた小さなそこから見えるのが空だけだったからであり、隣の建物が見える場所であったのならそれを見ていただろう。窓も何もなければ、味気ない壁を見ていたのだろう。特に空に思い入れが合ったわけではない。
 ただ、何もする事がなかった、それだけだ。
 自分がおかしいなど、一度も思わなかった。いや、今思い出しても、あの頃の精神状態が今と違うとは思えない。僕は自分の意思で、そう過ごしていたのだから。
 自分が病気になったと思われていると考え付いたが、何かをしようとは僕は思わなかった。逆に、そう仕向けた節もある。詰る父と、嘆く母にさえ、僕は口を開きはしなかった。
 そうすれば、何もかもが終わりへと導いてくれるかもしれない。
 子供が身をもって実験するかのように、そんなことを考えていた。

 入院して、一週間程過ぎた頃だ。
 トイレから出た僕の腰に軽い衝撃が起こった。後ろを振り向くと、子供が大きく目を見開き僕を見上げていた。ぶつかったのだとわかったが、別に何の思いも浮かばなかった。
 怒られると思っていた子供は拍子抜けしたのだろうか、それとも無表情な僕が気味悪かったのか。どんな顔をしていいのかわからないといった風に、驚きからおかしな表情を作っていった。
 だが、それも一瞬の事で、子供は僕の横をすり抜け、廊下を駆け出した。僕は何となく突っ立ったまま、その姿を視線で追いかけた。
 丁度夕食時で、廊下にはその子供以外の人影はなく、真っ直ぐと駆けていく少年を見失う事はありえなかった。
 そして。
 彼はそんな僕の視線に気付いたのだろうか、気になっていたのだろうか、僕を振り返った。
 確かに、目が合った。
 だが、次の瞬間には、離れた。
 スローモーションのように、少年の体がゆっくりと傾き、そして、壁に飲まれるように消えた。
 僕の視界から、人の姿が消えた。残るは誰もいない、廊下のみ。
 少年が消えた。
 …そんなはずはない。そんなわけがない。
 辞書を引き確認するかのように、僕の頭にそんな言葉が現れた。
 そう、消えるはずがないのだ。
 気付けば、僕は走り出していた。走りながら、先程の光景が目に浮かんだ。壁にのまれるように見えたのは、壁の向こうに空間があるというだけのこと。あの場所は、確か階段だった。
 落ちたのかもしれない。
 走りながら漸く僕はその考えにいたった。
 階段の手前に、汚れた紙が一枚落ちていた。それを踏み滑ったのだろう。予想通り、僕にぶつかった少年は、そこにいた。
 階段の踊り場で、頭を抱えるようにして、倒れていた。

 僕は階段を降りながら、叫んだ。いや、叫ぼうとした。だが、声は出なかった。
 けれど、それを気にする余裕はなかった。
 少年の姿に、友人の姿が重なったからだ。
 全身が一瞬で固まり、少年の側で僕は立ち尽くした。
 目の前に一瞬であの血の海が広がった。

 しかし、それも一瞬の事だったのだろう。
 階段を降りきった下の階の廊下を、男が何か大きな声で言いながら歩くのを僕の耳は捉え、すぐさま僕は階段を駆け降りた。
 夢中で男の声を追いかける。他にも人はいたのかもしれないのに、逆の方を向く事さえしなかった。
 声の主は、白衣を着た、医者だった。
 僕は彼を呼ぼうと口を開いた。
 その時だ。初めて自分の声がない事を理解したのは。だが、まだそれがどういう意味かもわからず、声が出ないのなら叫ぼうとしても仕方がないと、僕は口を閉じ、医者を捕まえる事にした。
 走る足音を聞いたのか、僕の気迫か。その医者は辿り着く前に僕を見、軽く眉を寄せた。
 走らないで下さい、危ないですよ。
 そんな言葉を吐く医者の腕を、僕が勢いよく掴み引っ張ると、男はギョッと驚いた顔をして抵抗した。だが、振り払おうとする腕を離さず、掴んでいない方の手で僕は階段を必至で示した。
 口は動いているが、声は出ない。そんな僕の様子に、さすがに気味が悪いと拒否する事はなかったが、協力もしなかった。男は落ち着けと僕の動きを押さえつけようとする。いつの間にか、別の医者が慌てた様子で僕のところに掛けて来ていた。
 僕ではなく、あの少年のところへ。
 その僕の願いは、女性の高い悲鳴で叶った。
 廊下に現れた看護婦が、少年が倒れている事を知らせると、僕に構っていた二人の医者が駆け出した。僕もその後を追った。

 耳から血を流し運ばれる少年を、僕は周りの喧騒から離れ、ぼんやりとただ見送った。
 とても、疲れた。
 僕は本当に疲れていて、それ以外の事は何も思わなかった。少年が助かるのかどうか、祈る事もなかった。
 そのまま僕は病室に戻り、現実から目を背けるように、眠りについた。

 次の日、自分が声を失った事を僕はきちんと知った。
 だが、それすらもどうでも良く、特に悲しいとも辛いとも思わなかった。
 ただ、そうなのかと受け入れた。

 僕にとっては、それは今も、それだけのことでしかない。

 声などなくとも、僕はちゃんと生きている。
 死んではいない。

2003/02/12
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