# 26

 あの日から、佐久間秀は度々店に現れるようになった。そして、それを監視するかのように、筑波直純も。
 少し眉を寄せ酒を飲むその男の行動が、僕にはいまいちわからない。顔を合わせたくない人間を、何故避けずにいるのか。追いかけるような真似をしているのか。本当に監視するのであれば、自らではなく下の者を使ってやらせる事が可能なはず。もちろん、態々不味い酒を飲みたいのだというのであれば、話は別だが。
 一方、佐久間秀の方は、いつでもあの楽しげな笑顔を見せていた。僕にはもちろんの事、自分を邪険にあしらう男にも。…いや、正確にはその笑顔は、武器なのだろう。果敢にも、彼は不機嫌なヤクザを更にからかうのだ。
「帰れ」
「嫌だよ」
 普通の者が聞けば、それだけで凶器となるのではないかと思える声音に対し、クスリと笑い、同じように簡潔な言葉を返す。そのやり取りを、一体僕は何度聞いただろうか。
「佐久間。いい加減にしなければ、こちらにも手があるぞ」
「どうぞ、ご自由に。さて、君が動く理由を是非とも聞きたいね、僕は。何故、どうして?
 僕は何か悪い事をしたのだろうか、筑波くん?」
「存在自体が、邪魔だな」
「なら、その理由で動いてごらんよ」
 出来るものなら、だけどね。
 肩を揺らせる青年への男の舌打ちは、いつの間にかすっかり慣れたものとなった。
 もしかすれば、この二人はこれを結構楽しんでいるのかもしれない、と僕は思う。尤も、眼鏡を掛けた医師は絶対にそうなのだろう。だが、それもまた、少し意外だったりもする。
 何にしろ、やり取りを交わす男二人は子供のようで、僕は少しおかしかった。


「お前は、俺の忠告を聞く気はないんだな」
 グラスを傾けながら、病院からの呼び出しだと残念そうに佐久間さんが帰った後も居座った筑波直純は、閉店間際になり客が少なくなった頃、そう呟いた。
 長い間黙って飲んでいると思えば、天敵がいなくなった後も、彼の事を考えていたというのだろうか。
 不器用さが見える男のそれに、僕は少し微笑ましくなった。軽く眉を寄せた顔をカウンター越しに見ながら、この男は悩むタイプらしいと軽い笑いを落とす。医師であるあの青年や、バーテンの僕よりも、ヤクザであるこの男の方が繊細なのかもしれない。
「何が、おかしい」
 僕の口元に浮かぶ笑みを見止め、男は溜息を吐いた。
「あの男を気にしてこんな事をしている俺は、馬鹿でしかないか?」
 お前には迷惑なんだろうな。
 男の言葉が、わからない。
 僕は酒を煽る男を見ながら、顔に疑問を表した。だが、男は僕を見ていないので、それ以上の言葉は返ってこない。
 迷惑かと聞かれるような事を、僕はされてはいない。
 もし、態々店にきて二人で子供のように言い合いをしている事をさしているのなら、それは客同士のことなので僕が口を出す事ではないし、マスターが判断するもの。バーテンとして雇われている僕には、あまり関係ない。
 なら、何を言っているのだろうか。僕にはやはり、わからない。逆に、迷惑かと僕に問う男に、嫌いな相手がいるこの店に何故くるのか、と問い返したいくらいだ。そう、その疑問は確かにある。だが、それは心を占め仕事に手がつかないというほどのものでもない。
 やはり僕は迷惑など掛けられてはいないだろう。
 頭を捻る僕の中に、ふと、以前も同じ言葉を受けた事を思い出す。あの時も、僕は何故そんな事を聞かれるのかわからなかったのだ。
 もしかしたら、僕が無視する形となってしまった忠告を指してのことなのだろうか。
 だがそれも、命令ではなく、単なる言葉だ。僕が気にすることではない。
 男の言葉は、難しいというか、的を得ないというか…。僕には少し複雑だ。
 男はそんな風に悩む僕に気づく事はなく、空になったグラスをコトリとテーブルに置いた。そして、外していた視線を向け、僕をじっと見据え、また別の質問をする。
「お前、…佐久間を気に入ったのか?」
 僕を見る目は、とても強いものだった。…そう、憎しみさえ浮かぶようなほどに。
 カウンターの明かりに照らされた男の目は、いつもは気にならないが、こう光を映せばわかる、灰色がかったものだ。もしかすれば、どこかの国の血が混じっているのかもしれない。今更ながらに、そんな事を思いつく。
「どうなんだ…」
 答えを促す言葉には、少し躊躇いがあったが、灰色の目の力は衰えはしない。
 その目を見返しながら、僕はふと、男の後ろに別の人間の面影を見た。
 男とは対照であるはずの、佐久間秀の姿を。
 僕はこの質問にどう答えればいいのだろうか。なぜかその問いを、その面影に訊ねる。
 あなたはどうしたいのか、と。
 けれど、答えなど返るはずもなく、男との間に沈黙が落ちるのみ。
 仕方がないので、僕は、自分の中で答えを探す。

 佐久間さんは、いつもカウンターに座り、他愛のない話をする。そう、過去の事を話しても、それは僕との共通のものではなかった。あの少年の事を口にしたのは、あの日だけだ。
 客と店員。僕達の関係は、それだけでしかない。あくまでも、表面上は、だが。
 話せない僕を相手にする彼も、そんな彼を避けることはなく付き合う僕も、目には見えないところで繋がっている事を互いに知っている。けれど、彼も僕もそれを見せない。
 それを除けば、単純に良い客だと言えるのだろう。話も上手ければ、僕に対してのさり気ない気遣いも楽なものだった。質問は首を振るだけでわかる、YESかNOで答えられる訊き方をし、喋れないハンディなど感じさせないものなのだ。医者だからというよりも、彼だから出来るのであろう。何よりも、見た目の若さとは違いスマートな彼は、同僚や他の客の受けが良かった。
 だが、彼がそう出来た人間ではないということを、僕は知っている。
 しかし、だからどうした、というものでもある。例え、彼の中に何があろうと、僕は僕に見せる彼と付き合うしかないからだ。
 いや、それは少し、言い訳なのかもしれない。
 僕は、あの笑顔の下にあるものをわかっていても、佐久間秀を嫌いにはなれないのだ。
 気に入っているというのとは違う。
 そんなものではなく、彼を憎めないという言葉の方が近いだろう感情は、自信でも曖昧なものだ。言葉には出来ない、沢山のものが僕の中にある。
 あえて言うのなら、同類という仲間意識だろうか。…いや、仲間などではない、ただ、自分と似た部分が心地良いという程度だろうか。
 なんにしろ、僕は今、彼を少なからずとも必要としている。そして、彼もまたそうなのだろう、僕を利用しようとしているのかもしれない。
 仮面を被る彼には、僕の心がどれだけ読めているのだろうか。同じく、僕が彼をどう読んでいるのか、どこまでわかっているのだろう。もしかしたら、彼は全く僕のことなど考えていないのかもしれない。そう、彼にとっては僕の内面などどうでもいいのだろうから。
 ただ、僕は。
 僕は、彼がこうして客として現れるのを、歓迎している。

 自分でもはっきりとわからない感情を、どうすれば他人に伝える事が出来るというのだろうか。
 僕は、依然として真っ直ぐと見つめてくる男の目から視線を逸らし、いつものようにペンを走らせた。
 僕の言葉は、時として、僕の感情以外の色を見せる。
【彼は、いい人です。好きですよ】
 嘘臭い言葉だ、と自身で軽く笑いながら、男にそれを示す。
 いい人など思った事はない。いい人のような人、でしかない。だが、彼のあの表面を今はただ評価するしか、言葉は思いつかなかったのだ。
 案の定、筑波直純は眉を寄せた。
「……いい人ね。…まさか、あいつが、だな」
 しれっと紙を見つめたまま、悪態を吐く。
【そうですか。でも、僕には優しい】
「それがあいつの手だろう。何故わからない」
 お前は人を見る目がないわけではないだろう。
 苛立ち紛れに落とされる言葉に、更に僕は追い討ちをかける。これでは、佐久間さんと変わらない。
【あなたも何故わからない】
「奴がいい人なんかじゃないと、俺は知っているからな」
【それでも、彼は僕に優しい】
 彼の優しさは、関心のなさを表している。
 そして、彼が何故、この男にとっていい人ではないのか、理由はひとつだ。
【けれど、僕よりも、彼はあなたを気に入っている】
「…何を言っているんだ」
 呆れた後、冗談にも程があると顰め面を見せた男に、僕は笑いを落とした。
 これは、本当のことなのに。

 そう、佐久間さんは、この男を気に入っている。
 そして、あの男を。

 だから、僕の前に姿を見せるのだ。

2003/02/12
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