# 27

 珍しく、まだ昼までには少し間がある時間に、僕は小さな部屋を出て、人込みの中に紛れた。早くも働き始めているサラリーマンに、重役出勤の学生達。ラッシュはすんでいるのだろうが、まだまだ乗客が多いといえる電車に揺られ、僕は短い時間を窓の外を見てやり過ごす。
 味気ない街は、光を受けてもあまり色は変わらない。灰色の建物が沢山聳え立つばかり。空も同様に、青空とは言えない、汚れた白いもの。晴れているのか曇っているのか、この時期はどこがそれの境目なのかわからない。
 けれども、僕は嫌いではない。味気なくとも、この街には数え切れない人間が住んでいる。その一人一人が別の生き物。ならば、僕のような人間がいてもいい、そう思える。
 この街は、夢を見るには汚れているが、自分を甘やかす事が出来るところだと、僕は思う。夢を求めてこの街に来る者もいるだろうし、辛い場所だと言う者もいるだろう。あくまでも、僕にとってはそうだというだけだ。この少し汚れた空気が、僕にはあっているのだろう。
 まるで吐き出されるように電車から降りた僕は、人の流れに乗り改札を目指す。溢れかえる人々は、それぞれ別々の意思を持ち動いている。偶然にこの同じ空間に居るというだけで、他に繋がりはない。人込みの中の、ひとりにしか過ぎない、誰もが。そう、僕も。
 けれど。

――気味が悪い。

 ただ、それぞれがそれぞれの生活をしているだけにしか過ぎない、そんなバラバラな人間が沢山集まっている光景は、なんだか不気味だ。
 座り込んだ街中で、乗り込んだ電車の中で、人込みに酔った友人はよくそう言っていた。何だか、恐いなと小さく笑っていた。自分もその中のひとりだと思うと、堪らない。そう嘆いていた。

 弱かったわけではない。
 ただ、この空気には合わなかったのだろう。
 空気に染まり、同じように汚れる事は出来ず、けれども、綺麗であり続けられると自身で信じていなかった。実際には汚れる事などなくとも、そうなっていると思い込んでいたのだろう。だから、ズレが生じ、己を保てなくなったのかもしれない。
 気味が悪い。
 そう言いつつもどうにも出来ないもどかしさは、この空気に合っている僕には、わからない。


 頬を掠める空気は、いつの間にか冬になり、痛みを伴うものとなった。秋の名残と冬の訪れを感じさせる格好が入り混じった街中。そろそろ、冬物のコートを用意しなければならないのだろう。
 揃いのコートを着た高校生達と擦れ違った時、ジーパンのポケットに入れていた携帯が震えた。メールだろうと疑いもなく取り出し眺めた画面は、電話がかかってきている事を知らせていた。
 小さな画面に「佐久間秀」と表示された文字は、僕がボタンを押すと、「通話中」に変わる。
『ね、保志くん、左向いて、左』
 挨拶も何もなく、佐久間さんは楽しげな声で、突然そう言った。
 何なのか、と聞き返すことは出来ず、言われた内容を理解するよりも先に、僕は眉を寄せ小さく首を傾げた。そんな僕に、「そうじゃないよ」と彼は訂正を入れた。
『左だよ、保志くん。お茶碗を持つ方だよ、ほら、足を止めて。左を向いて』
 僕は言われたように、左を見た。目の前を、頭の禿げたオヤジが通り過ぎる。次は、OL風の女性が二人…。
『ね、見えてる? お〜い。道を挟んだ、向かいの歩道に居るんだけど』
 佐久間さんが苦笑しながら言った言葉に、僕は少し顔を上げ、視点をずらした。
 行き交う車の向こうで、携帯を持ち、空いた片手をこちらに向けて振っている男を見つけた。
『おはよう、保志くん。これからお出掛け?』
 僕は頷きながら、通話口を一度爪で叩いた。YESの合図。
『そうか。ね、急いでいる?』
 今度は、二度同じように携帯を叩く。これは、NO。いつだったか、佐久間さんが便利だろうといって決めた合図だ。だが、まさか、本気でこの僕に電話をかけてくるとは。
 僕の答えに、「なら、そこにいて。今そこの信号が変わったから、行くよ」と言い、通話を切った。携帯を仕舞いながら、歩き出した佐久間さんの姿を目で追い、彼が向かう先に僕も足を向ける。
 携帯は、メール機能を目的に持っているので、通話は殆ど使わない。マスターが僕と連絡をとる時、文字を打ち込むのは面倒だからだという理由で数回かけてきたことはあったが、その時も先にメールでその旨を知らせてくれる。
 普通に僕に電話を掛けようとするものなど、彼ぐらいだろう。
 横断歩道を渡り、そこで待っていた僕に、佐久間さんは笑顔を向けてきた。
「実は、電話をする前に呼んだんだけどね、側にいた人が何人も振り返って焦ったよ」
 握ったままだった携帯を鞄に仕舞いながら、佐久間さんは肩を竦めた。
「僕はこれから仕事なんだけど、保志くんは買い物?」
 僕は髪の毛を掴み、逆の手でブイサインを作りカニのように指を動かし、軽い笑いを作った。
「ああ、髪を切りにいくのか。お気に入りの店があるのかな」
 僕はその問いに、どうでしょうか、というように軽く肩を竦めておいた。佐久間さんの言葉は、僕がこの辺りに住んでいないのを知っていることを現している。知られて不味いわけではないが、聞かれた覚えもないので、あまり見せ付けられたくはない事実だ。
「あまり短くしない方が良いかもね、これからは寒くなるばかりだから」
 そんな軽口を、他にも二、三叩き、佐久間さんは笑った。
「っと、ごめんね、足を止めさせて。僕もそろそろ行かないと。
 それじゃあ、保志くん。また、お店にお邪魔させてもらうよ」
 信号が青に変わると、先程渡って来ったばかりの横断歩道を、佐久間さんは歩き出した。
 けれども、直ぐに振り返る。
「保志くん」
 数歩の距離を戻る事はせず、立ち止まり言葉を紡ぐ。歩く人の中で、動きを止め、僕を見る。
「その時は、友達を連れて行ってもいいかな?」
 いつも通りの笑顔で、佐久間さんは笑った。
 その顔を見ながら僕がゆっくりと頷くと、「そう、ありがとう」と、目を細めて笑い、踵を返した。またね、と。

 その後ろ姿から直ぐに目を逸らし、僕もまた、止めていた歩みを再開する。

 ありがとう。
 それは何に対しての礼なのか、僕が聞く必要はないのだろう。
 僕はただ、自分の意思で動くだけだ。



 二日後。佐久間さんはいつものように、優しげな笑顔と共に店にやって来た。
 隣には、友達を連れてくると言ったように、本当に、男を伴っていた。

 あの男が、そこに、立っていた。

2003/03/11
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