# 28

 天川司が、僕の前に現れた。

 隣の佐久間さんとは違い、歳相応の男だった。黒い髪を後ろに撫でつけ、ダークスーツに隠された体もそれなりに肉がついているのがわかる。
 あの頃は長めの茶色の髪を縛り、細身だった青年がこんな風に変わるくらいに月日は流れたのだと、その姿に僕は実感した。なのに、迷う事なく男が誰であるのかがわかったのは、あまり変わっていない独特の雰囲気からだろう。
 尤も、ただ酒を飲みに来ているわけではないのだろうこの店に、佐久間さんが連れてくる人物など限られているというもの。いつかはこの日が来ることは、僕にもわかっていたことだ。彼と会った日から、これは決まっていたのことなのだ。
 僕が男から隣の佐久間さんに視線を移すと、彼は笑っていた。それは、これから楽しい事が始まると、期待に胸を膨らませるような子供の笑みのよう。
「お前が行くか?」
 側に居た同僚が、彼らの姿を見止め、僕にそう訊いた。同時に、カウンターではなくテーブル席についた佐久間さんがこちらに向かって軽く手を上げる。
 僕はあまり注文を受けには行かないのだが、知り合いだからと、佐久間さんが僕を贔屓にしているからと、そういう理由で同僚は僕に訊いただけだろう。だが、楽しげな彼の目は違った。佐久間さんの目は、僕を挑発するようなものだった。いや、断る事は出来ない、命令のようでもある。
 その目を見返し、「やっぱ、俺が行こうか」と言う同僚に首を振り、僕はカウンターを離れた。そして、その目的のテーブルから目を外すことなく、真っ直ぐと近付いた。
 緊張はしていないが、微かに周りの音が遠くなった気がした。

 男の目は遠目からでもわかるほど、虚ろ気なものだった。それは頼りないというものではなく、関心を全く持っていないといった意思がないもの。あの頃とは違い、その目には子供のような感じはない。面白味のない大人の色だ。
 僕が近付いても、男は反応を示さず、面白くなさそうに店を眺めていた。
「今晩は、保志くん」
 男は、佐久間さんが声を掛けたというだけの存在として僕をチラリと眺め、やはり興味など示さず、一言口を開き酒を注文した。微笑む佐久間さんが、男に僕の事をまだ知らせていないのが、その男の態度でわかった。
 月日は過ぎたが、男の性格が外見程に変わっているようには、僕には思えない。男の態度は、知らないからこそのものなのだろう。知っていたのならば、男はここに来なかっただろう。僕が側に立つ事も嫌がっただろう。無関心を装えるほど、ポーカーフェイスが上手くはない。穏やかな気性でもない。何より、そんな風に佐久間さんはこの男を育ててはいないだろう。
 男を語れるほど僕は多くを知っているわけではない。だが、僕が判断するのは、僕が知る一部だけでいいのだ。佐久間さんが知る男も、あの友人が見ていた男も、僕の中にはないのだから。僕は、僕に見せられる部分で男を判断する。
 僕の中の男は、何も出来ないと諦めながらも、周りを妬む子供だ。そして、その認識は、それが全てではないとしても、間違ってもいないだろう。少なくとも、男を優しいと言ったあの少年よりもそれは正しい判断だと、僕は思っている。

 男がスーツから煙草を取り出し、ライターで火を点けた。
「彼はね、口がきけないんだよ」
 佐久間さんが、テーブルに載っていた灰皿を男の前に寄せながら言う。男はそれがどうしたのかというように佐久間さんを眺め、軽く紫煙を吐き出し、その話題流した。
「っで、お前は何にするんだ」
 早く注文しろよ、と促す男に、そうだねと佐久間さんが僕を見る。
「何でもいいから、ホットカクテルを。保志くんのお勧めでね。
 とりあえずは、僕はそれで良いけど、司は? 酒だけよりも、何か食べる方がいいよ」
「美味いものはあるのか」
 メニューには手を伸ばさず、煙草を吸いながら男は佐久間さんに問う。
「そうだね。なら、スモークサーモンのサラダとカナッペを貰おうかな」
 二人分の注文を受け、席を離れるために一礼をした。その僕の上に、佐久間さんが言葉を落とす。
「ね、保志くん。覚えているかな、彼を」
 顔を上げた僕を真っ直ぐと見つめてくる佐久間さんに、僕は頷いた。
 天川司。友人の兄というだけの存在であり、直接話をした事などあまりない。挨拶程度のものを何度かといったぐらいだろう。天川司本人の存在は、僕の中ではとても薄いもの。だが、友人を通しての男は、忘れるはずがない人物だった。
 多分、男にとっても、僕は似たような存在なのだろう。僕本人に興味はないが、強い感情は持っているはずだ。
 首を縦に振った僕を男は一瞥し、直ぐに佐久間さんに目を向けた。
「どういうことだ?」
「君は覚えていないみたいだね、司。彼はね、保志翔くんだよ。名前くらいは、覚えていないかい?」
「……保志…?」
 眉を寄せ、男は僕を見上げた。漸く、僕という人間をその目に映す。
「君の弟くんの友達だよ」
「…誠の?」
 少し驚き、男は記憶を辿るように、再び僕の名前を呟いた。
「保志…」
「君達も、あの頃話をした事はなかったのかな」
 佐久間さんが首を傾げる。
「思い出さない?」
「あいつの友達って言ってもな…」
「なら、こう言えばわかるのかな」
 本気で僕について考えている様子ではなく、別の事を思い出しているかのような男に、佐久間さんは楽しげに笑って言った。

「あの時の生き残りだよ、彼は」

 生き残り。
 その言葉に、男は大きく目を見開き、指からするりと煙草を滑らせた。煙草はテーブルの下へと落ち、のびていた灰が黒い床に散らばった。
 僕はそれを身を屈めて拾い上げ、男の前の灰皿に煙草を置いた。その動きを、男が目で追う。
「思い出したかな、司」
 佐久間さんが、男の驚愕など全く気にせず、同じ調子で笑った。
「忘れていなくて良かったよ」
 その言葉は、どんな意味を持っているのだろう。忘れるはずがない事を知っていての言葉は、男を笑っているのか、想像した未来の訪れを喜んでいるのか、それともまた何かを夢見る事が出来たのだろうか。何が彼の心を喜ばしているのだろう。
 佐久間さんの言葉に、同様ではないにしろ何かを感じ取る事が出来るのなら、男は今、こんな時を過ごしてはいないだろう。佐久間さんではなく、あの少年を選んでいたのなら、もっと違う人生を歩んでいただろう。
 何も気付かない、気付けない男は、ただ目の前の僕の姿に戸惑い、何かを求めて友人の名を呼ぶ。その声は、昔と変わらない、非力な子供の様なものだった。微かに震えるような声は、叫びなのかもしれない。だが、それを聞き止めてくれるあの少年は、もうこの世にはいない。
「……秀」
「何? どうしたの?」
 男は僕から視線を外し、佐久間さんを見、そしてゆっくりと頭を振った。そんな男を、どうしたのかと軽く笑い、「それじゃあ、保志くん。注文宜しくね」と佐久間さんは、僕に退却を促した。逆らう理由はないので、僕は再び頭を下げ、今度こそその場を離れる。

 もし、視線で人が殺せるのであれば、僕は今直ぐに死んでしまうのかもしれない。

 そう思えるほどの強い視線が、カウンターに戻る僕の背中に突き刺さった。
 戸惑いが、はっきりと意思を持つのに要したのは、数秒という短い時間。

 生まれたのは、憎しみと怒り。

 けれども、僕は、当たり前だがそんなことでは死にはしないし、死ぬ気もない。

2003/03/11
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