# 29
佐久間さんが帰った後も居続けた天川司は、閉店間際に漸く店から姿を消した。
だが、それから30分程経ち、店の片付けを終えて裏口から出た僕の前に、その男は再び現れた。接触を回避出来るとも、それを望んでいたわけでもないが、真夜中の路地裏でのこの遭遇は少し意外なもので、僕は男を見止め、僅かに目を見開いた。
そんな僕を、男は忌々しげに睨み付け、ゆっくりと近付き目の前に立ちはだかる。
何をしてでも僕を捕まえたかったのか、それとも他に何かがあるのだろうか、男の考えなど僕にはわからない。けれど、何にしろ、この半時間の間寒い中でいた事は事実なのだ。男の顔は寒さのため、暗闇でもわかるほど、蒼白になっていた。
しかし、男にすれば、そんなものはどうだっていいのだろう。その事に気が回るのであれば、こんな風に一人で思いつくままに待ち伏せなどしないだろう。子供のように、男は周りを見失っている。それは、怒りを宿し、姿を大人に変えていても、あの頃と同じ危さを感じさせた。
そう、血の気が引いているのは、寒さのせいばかりではないのだろう。この男は、あの友人である佐久間さんとは違い、感情を心で隠しきれずに表に出してしまうタイプなのだ。素直と言うのではなく、男の場合、それは自らを甘やかしているに過ぎない。
――だけどさ、嫌いじゃないんだ。そこが、司なんだよ。
頼りないとさえいえるような男のこんな一面を、少し照れた表情でそう評価した友人の声が耳の奥で蘇る。
だが、僕はそう思うことは出来ない。
今も、男は混乱する頭を持て余し、ただ一時でも僕に怒りを向けることで乗りきろうとしている。考えればわかることから目を逸らしている。今も昔も。だからこそ、彼はあの少年を失ったのだ。
その事に気付かない男と、気付かせない佐久間さん。
気付いて欲しいと努力し続けた友人。
誰が悪いと言うわけではないだろう。正しくなかったが、間違ってもいなかった。それぞれの想いがただ、噛合わなかったのだ。
そして、全てを知っていながら何も出来なかった僕もまた、間違ってはいなかったはずだ。なぜなら、彼らの中に入り込むだけの想いが、僕にはなかったのだから。
だが僕は、この男にとっては、そんな風に言える部外者ではないらしい。
「…こんなところに居たとはな」
天川司は長い沈黙後、低い声でそう言った。暗い目が、僕を見据える。
変わらないくらいの身長なので、絡みつく視線は逃げ場などなく、ただ互いに真っ直ぐと重なりあうしかない。それは僕に少し可笑しな錯覚を与えた。男の姿以外のものが、視界から消える。
「本当に、まさか、今になって会うとは…」
男のその言葉では、それを歓迎しているのかどうなのかまではわからない。心の中で溢れる沢山の感情の一部が零れ出てしまったという感じだ。
僕はそんな男を見つめ返し、そして、口の端に笑いを浮かべた。やはり、この男は、あの頃から成長していないのかもしれない。少なくとも精神面では。
馬鹿な男だ。
僕の笑みに、男が一瞬顔を強張らせ、直ぐに怒りを表す。
「何だ、その笑いはっ!」
襟首を両手で掴まれ、壁に叩きつけられる。痛みよりも、じわりと背中に広がる、凍った壁の冷たさが堪えた。けれど、僕は笑みを崩さず、男を見据えた。
「あんな事の後で、よくものうのうと生きて来れたもんだなっ」
睨み付けてくる視線は、僕には何も与えはしない。
「…誠をあんな目にあわせて……、何が友達だ、畜生っ!」
秀も何を考えているんだっ。
先程の佐久間さんの言葉を思い出したのか、男はそう言いながら僕を締め上げる手に力を加えた。壁と男の手により、喉が締め付けられる。さすがに、そうされては笑いを作る事など出来ず、僕は小さく口を開いた。けれど、息は上手く吸えない。
締まっていく手は、直ぐに僕の頭に血を上らせた。息苦しさに重なり、顔が熱くなり、耳の奥が膨張する。マラソンの後のような感覚だ。だが、口では思うように息は吸えず、どうにか鼻で吸い込むが、夜気のお陰で直に粘膜が悲鳴を上げる。最低だ。
無意識に手を伸ばし、僕は男の手首を掴んだ。だが、男の腕はびくともしない。自ら微かに震えているのみで、僕の手などに関心はないようだ。
「あいつは、お前を慕っていた……、なのに、お前は…」
締め上げられているのは僕の方なのに、それをしている男が苦しげに眉を寄せる。今にも泣き出しそうなその表情は、子供のようだ。だが、だからと言って何だというのだ。男の感情など、僕にはどうでもいいものだ。
僕は何故か意地になって口を閉じ、苦しみの中で、口元に笑いを浮かべた。男の顔に、僕と同じように血が上る。
「あいつを殺しておいて、お前は…っ!!」
その言葉を否定はしない。
だが、懺悔の言葉を吐く気もない。特にこの男には。
男の締め上げに、喉の奥がコキリとなった気がした。けれど、僕は視線を外す事も、まして抵抗する事もなく、ただ男を見据えた。今ここで、自分の心を確認するように。
僕の中に、男への感情がはっきりと浮かぶ。
「…俺は、お前を許さない」
それは奇遇だな。
喋れていたのなら、迷わずそう言っただろう。僕はそれが出来ない代わりに、男を睨みつける。
「――覚悟しておけ…」
忌々しげに男は突き放すように、その言葉と共に僕を解放した。
感情とは違い、僕の体は悲鳴をあげていたのだろう。送り込まれた空気に、喉が痛み、咳き込む。折角吸えた空気を直に吐き出したせいで、胸がぎゅっと軋み、また咳く。
男はそんな僕を睨み付け、そしてこれ以上目にするのも嫌だという風に踵を返した。細い路地裏を歩く男は、直ぐに僕の視界から消える。
けれど、僕は男が去った方向を暫く見ていた。
天川司。
僕も、あの男を、許しはしない。
例えそれが友を裏切るものであろうと、彼に憎まれるのであろうとも、僕の感情はそうなのだから仕方がない。
あの男が、憎いと思う。
僕から友を奪った男が。それに気付かない男が。
――それでも、俺は好きなんだ。バカだろう?
泣きながらも、笑って彼はそう言った。
――お前を一番に出来たら、良かったのにな…。
苦しくても辛くても、それでも生きろ。
もし、そんな事が言えていたとしても、意味などなかっただろう。
僕は、彼の一番ではなかったのだから。
2003/03/14