# 30

 天川司が消えた後もなお、その空間を見続けていた僕に、少し硬い声が掛かった。
「…お前、大丈夫か…?」
 振り返ると、そこには筑波直純と一緒に居るのを見かける、若い男が立っていた。
 あの男の強い視線に飲まれ、僕は他の者の気配を全く感じる事が出来なかったのだ。だが、男はそうではなかったのだろう。この青年に気付いたからこそ、あっさりと僕を解放したのだと、僕は漸くその事に思い至った。
 面白い。
 あれだけ怒りを表していた男の方が、周りに気を配る余裕があったのだということに、僕は小さく笑う。元々の経験が違うだけの事なのかもしれないが、それでも僕はその事に妙な興奮を覚えた。
 男は、あの頃よりも、地位を確立し、それに似合うだけの経験もしているのだろう。ならば、許さないと言った男は、僕をどうする気なのだろうか。あの頃には出来なかった何を、僕にする気なのだろうか。
 それを少し楽しく思う僕はおかしいのだろう。だが、やられると同時に、僕も何かをやる事が出来るのかもしれない。それを考えると、どうしても笑みが零れそうになる。こちらから何かをするなど無理な相手だ。常にあの男は守られているのだから。
 だが、それも今夜解禁になったようだ。佐久間さんが、僕と天川司を引き合わせたのだから、そういうことなのだろう。彼の思惑が何処にあるのかはわからないが、そんな事はどうでもいい。
 別に、僕は本当に、佐久間さんの思惑に乗り、何かを仕掛けようなどとは思っていない。ただ、男の言葉ではないが、今になって再会し、このように動き出した事が、おかしくてたまらない。あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて、楽しくなるほどに。

「…怪我は、していないのか」
 心配げに目を向けてくる青年に、僕はいつもの笑いを口元に浮かべた。そんな僕を見、青年は軽く眉を寄せる。
「お前……」
 何かを言いかけ飲み込んだ言葉に、僕は肩を竦めておいた。それこそ、この青年にどう思われようとも良いというもの。脅されていた後で笑うなど狂人かと気味悪がられようとも、痛くも痒くもない。
 それよりも、何故青年がここにいるのか、その方が問題だろう。そう、この青年がこんなところに居る理由など、ひとつしかない。筑波直純が命じたのだ、きっと。
 自分が行くのは面倒だからか忙しいのか、それとも佐久間さんに会いたくないのか、理由はわからないが、本人は今夜店には来ていない。それでも、こうして部下はここにいるのだ、店を見張っていたというものしかないだろう。純粋に青年がこんなところを通りかかる事など、あるはずがない。
 佐久間さんとて店には毎晩来るわけではないのに、まして、彼が帰った後も青年は見張っていなければならなかったとは、ご苦労なことだ。多分、見知った顔である天川司が気になったのだろうが、正直、こちらとしてはいい加減にして欲しいというもの。
 僕は、心配げに、けれども余所余所しげに窺ってくる青年に溜息を落とした。僕に関わりのないところでならいくらでもやっていれば良いが、その目的が僕でないにしろ、実際には自分がこうして誰かに見られているとなるとそうも言っていられない。鬱陶しい、その一言に尽きる。
 感覚が研ぎ澄まされているわけでもないが、人の視線はそれなりに察知する。だから、こうして見張り役が見えるのは、気を揉まなくても良いという点ではありがたいのだろう。しかし、見張っていると認識するのも、楽しいものではない。やるのであれば悟られないようにして欲しいものだ。僕の前に堂々と現れるその神経を疑う。
 尤も、見張りがばれても良いというのは、それほど彼らにすれば重要ではないということなのだろう。だが、やはり、鬱陶しいとしか言えないのも事実。
 一体、何を考えているのだろうか。
 それを特に知りたい訳ではなく、ただ理解不能な悪態として心の中で呟く。

 僕は男によって乱された服を整えながら、青年へと近付いた。暗い路地裏に響く足音は、自分のものであっても少し嫌なものである。
「…何だよ」
 青年が眉を寄せ、僕に警戒を見せた。
 今の事は、筑波直純には報告しないで欲しい。そんな事を言っても無駄だろう。第一、何故かと問われても説得できるだけの答えなどない。君達には関係のない事だからと僕は思っても、それを判断するのは彼らの方なのだから。
 何より、佐久間さんを意識しての見張りならば、彼の友人である天川司と僕の事も、一応は耳に入れることなのかもしれない。
 僕の事が気になるといった筑波直純の今の感情が、変わっているのかいないのかは知らないが、気になればそれこそ、佐久間さんと関係を持ち出した時点で調べているはずだろう。尤も、あの頃は本当に彼とは何の繋がりも無かったのだから、無いものを調べる事は不可能だ。だが、少なくともあの事件の話は、どんな形にしても耳にはしているだろう。
 佐久間さんが言ったように、僕がその生き残りというところまで知っていたとすれば、天川司との関係に納得するはずだ。何にしろ、ここで口止めをしたところで、時間の問題で知れ渡る。そして、知れ渡った所で、筑波直純には何の関係も無いだろう。
 僕はそんな事を考えながら携帯を取り出し、画面に文字を打った。小さなディスプレイの淡い緑の光は意外なほど強く闇を照らす。路地裏では少し不気味な光だ。
 携帯電話を操作しはじめた僕にあっけに取られたのか、青年は一息吐き、話し掛けてきた。
「お前さ、天川さんと知り合いなのか?」
 僕は肩を竦め、打ち出した文字を見せるため、画面を彼の目の前に翳した。
「…はぁ?」
 青年の顔が、子供のようなものに変わる。スーツに秋物のコート姿にそれは少し幼い気がしたが、僕よりも若い男としては似合っているものでもあった。以前会った、街中での雰囲気を思い出す。尤も、あの時は顔に青痣を作っていたのだが。
 君の名前は何だったかな。僕はそう記したのだけなのだが、直ぐには理解できなかったようで、男は少し眉を寄せ考え込んだ。
「…お前、何を考えているんだ」
 そう呟く青年に、もう一度文字を記し画面を見せる。脈略も無い事で不審がっているのだろう。だが、僕にすれば、友達でも何でもなく、他に話す事もないので当然の質問なのだが。
【以前に教えられたと思うが、忘れた。悪い】
「……岡山だ。岡山、光一」
 空で指を動かせ、青年は僕に文字まで教える。ヤクザの割には、意外と律儀なようだ。
【僕は保志翔】
「…知っている」
 青年の言葉に、僕は口元に笑みを落とした。それもそうだ。
 携帯を仕舞い、煙草はあるかと仕草で促すと、少し草臥れた箱から一本抜き出してくれる。火も貰い、僕は壁に凭れて煙を燻らした。
 ビルの間をすり抜ける風が、表通りから入り込んできたのだろう、足元に落ちていた落ち葉をさらっていく。カサカサと擦れあう乾いた音と、ヒューと吹き抜ける冷たい風の音。それに混じり、青年の声が耳に届く。
「…お前って、おかしい」
 絶対、変わってる。
 そう言いながら、何故か岡山もまた、同じように壁に凭れて煙草を吸った。

 興奮しかけていた心を、僕は落ち着かせる。
 薄汚れた建物を添って空を見上げると、星も見えない、薄明かりの夜空が広がる。街の光が、けれどもそこに浮かぶ雲を教えていた。
 星は見えずとも、悪くはない。そんな夜空だった。

 天川司との再会は、僕に衝撃を与えた。
 あの頃から好きでもなかったが、嫌いでもなかった。友の兄というだけの関心のない存在だった。そして、あれからも。
 だが、今夜それが変わった。男の強い視線に、僕の心は変化した。
 もし、あの頃と同じように何の興味もない目で男が僕を見たのなら、僕は男に対してこんな思いは抱かなかったのかもしれない。
 感情は、一瞬で変化する。
 もしかすれば、あの男もまた、僕を目の前にして心の中でそれが起こったのかもしれない。

 そう、あの友人も。

 あの少年も、様々に、めまぐるしく心を変えていたのだろう。
 だが、僕はそれに気付かなかった。

 いや、気付かない振りをしていたのかもしれない。

 それが、僕の、罪なのだろう。

2003/03/14
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