# 31
マスターが従業員達を集め、店をたたむ事になりそうだという話をした。
今年はまだ大丈夫そうだが、その後はいつまで続けられるか、自分にもわからない。突然そうなれば皆も困るだろうから、今から転職を考えて欲しい。もちろん、こちらも出来る限りの事はする。そういった話だ。
以前に話は聞かされていたので、どう言う状況にあるのかは皆が知っていた。けれど、特に変わったところもなく、そう問題はないのだと何処かで安心していたのだろう。マスターに言われた事に、今更ながらだが動揺する者もいた。
そして、他の従業員とは別に、その後で僕はマスターに呼ばれた。
「本当に済まないね、こんな事になって」
マスター本人が一番堪えているのだろうに、それでも彼はぎこちなくだが小さく笑った。
「情けないね、本当に…。この店だけはと思っていたんだけどね…。
いや、嘆いても仕方がないね。まあ、そういう訳なんだけどね、保志くん。君は、ここが潰れたら、他に行くあてはありそうかい?」
僕は僅かに首を傾げ疑問を表した。
「さっきも言ったが、従業員の面倒は最後まで責任を持ちたいと思っている。選べるほどではないが、再就職の斡旋は出来る限りの事をするつもりだ。
だが…。正直、君の場合は、難しい。期待しないでくれ」
マスターはそう言い、僕に頭を下げた。
「無責任なのはわかっているが…。本当に、済まない……」
堪らない。やりきれない気分になった。
僕の父ほどの年齢の男が、目の前で僕に向かって頭を下げている。こんな僕に。
それはとても悲しいことでしかなく、僕はただ、マスターを見つめた。
筑波直純の顔がふと頭に浮かんだ。
男はこの店を任されているだけだというのは、彼の言葉からはっきりと伺えた。あの男とは違う上の誰かが、気紛れか何かで店を継続させ、そしてたたむ事を決めた。借金のかたに取られているのだから、それも仕方がないと言えるのだろう。
しかし、そんな思いが浮かぶ反面、思い出した男の顔に、僕は眉を寄せる。八つ当たりだとわかっていても、男に対して小さな怒りが浮かんだ。こんな結果になるのであれば、あんな風に店に顔を出し関わりを深めて欲しくはなかった。そんな理不尽な想いが浮かぶ。彼はただ仕事をしていただけなのだろうに。
だが、その思いも、次の瞬間には消えてしまう。
この世の中、どうにもならない、どうにも出来ない事が沢山あるのだ。
仕方がないと諦め、溜息と共に憤りを捨てなければ、次には進めない。
僕は頭を上げたマスターに向かって、肩を竦め口の端を上げて笑った。そして、ゆっくりと頭を振る。
彼がそう気にすることではないのだ。僕に対して、頭を下げる必要など、何処にもないのだ。
「保志くん…」
【言ったでしょう。僕も最後までここにいますよ。マスターの迷惑にならない限り】
「ありがとう。だがね、いつが最後になるのか、本当にわからないんだよ」
ふっと息を吐き、マスターは顔を顰めて言った。
【そんなのは、いいんです。僕は、ここにいたいから。
後の事も、心配しないで下さい。僕はどうにでもなります】
独り身ですから、身軽ですし問題ありません。そう肩を竦めると、マスターは軽く笑った。
「君は、いつでも強いね」
その言葉に、僕はいつもの笑みを落とす。
強くなどない。だが、マスターにそう見えるのであれば、それはきっと好き勝手に生きているからだろう。自分を一番に考えているからだろう。
【我が儘なだけです。自分がしたいようにしているだけなんですよ】
「それも強さだよ。そして、君は優しさも持っている。君と働けて良かったよ」
【まだです。これからも、よろしくお願いします】
ああ、そうだね。僕の言葉に、マスターは深く頷いた。
慈しみのあるその笑みは、初めて会ったときの事を思い出させた。
【よろしくお願いします】
従業員募集の張り紙の裏面にそう記して頭を下げた僕に、マスターは「こちらこそ、よろしくお願いします」と微笑んだ。喋れない餓鬼など戦力になりはしないだろうに、彼は難色を示すことなく僕を雇った。
はじめは雑用係としてバイトで入ったが、いつの間にか正社員にまでなった。雇い主がそうだからだろうか、他の従業員達も、周りと分け隔てることなく僕と接する。僕にとっては、普段は気にしてはいないが、最高の環境に恵まれたと言えるのだろう。一人趣味で吹いていたサックスも、人に聴かせる場を与えられたお陰で、それなりに上達する事が出来た。
客商売とあって、いつも笑顔を絶やさない。マスターの人柄に惚れ込み、店の常連となった者も多い。だが、温厚な性格でも、時には大きな声で怒る時もある。それは真剣に、従業員達と向き合っているということで、必要だからこそそうした態度をとる。だが、次の瞬間には、怒鳴って悪かったと直に謝るのだ。とても彼らしい一面。
7年と少し。長いと言えるその時期を、僕はこの店と共に過ごした。この店を中心に生きてきた。そう、僕にすれば、この店はもう人生の一部となっていて、失った時の事など思い描く事も出来ない。同じように、マスターもまた家族のような存在だ。本物の家族以上に顔を合わせ、僕を見ていてくれた。
そう、謝るのなら、マスターではなく、僕の方なのだろう。
とても良くしてくれ、こうして過ごしてこられたのは彼のお陰なのに、僕は困っているマスターを見ても何もする事が出来ない。自分の力のなさを嘆きはしないが、それでも済まないという思いは心に浮かぶ。
人間とは、とてもおかしな生き物だ。
あとどれくらい、この店でいられるのか。やがて来るだろう終わりを見、それを納得しながらも、何処かでどうにかならないかと夢を見ている。
そして、最後が来た時に、わかっていた事とは言え、嘆くのだ。
はじめから認識に反する感情を持たなければ、悲しむ事はないのだろうに。
だが、それをするのが、人間なのだろう。
だから。
悲しむのも、苦しむのも、悔やむのも。辛い事も、そう悪くはないと僕は思う。
だから。
僕は、それを失うぎりぎりの時までは、その手を離さないでおきたいと思う。
2003/03/14