# 32

 まさかこんなにも早く何かを仕掛けてくるとは。
 僕の認識が甘かったという以外にはないのだろう。あれから長い月日が経っている。昔の僕が知る人物ではないと、変わっているかもしれないと、もっとそう思うべきだったのだ。気を付けるべきだったのだ。
 だが、後悔しても遅いというもの。

 僕は、床に転がされたまま、天川司の顔を思い出していた。


 真夜中にいつも通り帰路に着いた僕は、途中コンビニ立ち寄り、いつもよりほんの少し遅い時間にマンションの階段を上りはじめた。もしかすれば、僕のこの足音を聞きとめている者がいるかもしれないと、時刻を考慮して心持ち気を配りながら足を運ぶが、それでも音は完全に消す事は出来ない。
 安普請と言うほどのものではないが、やはり問題はあるのだろう。僕は不快ではないので気にはしないが、苛付いている住人もいるかもしれない。
 そんな僕の配慮とは逆に、早々に努力は捨て去ったようなカツカツという足音が上から響いてくる。いつも僕が部屋に辿り着いた頃に出かける、階上の人間だろう。
 直ぐに狭い階段で譲り合い擦れ違ったのは、意外にも初老の紳士だった。僕のスニーカーとは違い、どうやっても音をたててしまうのだろう、綺麗に磨かれた革靴を履いていた。男はこんな時間だというのに、にこやかに会釈までしてくれた。
 僕もそれに頭を下げ、足を止めることはなく、男が降りてきた階段を逆に上る。部屋の前に着き、鍵穴に鍵を差し込もうとした時、駐車場から車が出て行く音が聞こえた。先程の男を思い浮かべ、何となく口元に笑みをのせながら、僕は鍵を開けドアノブを回した。

 先程の男に、気をとられていたというわけではない。
 誰にも会わず、何もなく、いつものように部屋に辿り着いていても気付かなかっただろう。僕の感覚はそれほど鋭くはなく、人並でしかないのだから。

 ドアを引いた時、不意に後ろで誰かの気配を感じた。振り返ろうとしたと同時に、僕は力を入れてはいないのに、ドアが大きく開き、背中からそこに押し込まれ、直ぐにバタンと大きな音を立てて扉が閉じられるのを耳にした。
 何だ、と思うのと同時に、前のめりになった体を背中から更に押され、靴を履いたまま玄関から廊下に上がってしまう。だが、そんなことは、全く取るに足らないことだった。
 辛うじて倒れこむ事を避けたというのに、直ぐに新たな衝撃が起こり、僕は狭い廊下に倒れこんだ。足を払われたのだ。手で体を庇ったところへ、今度は肩に重みがかかる。そこで漸く、誰かがいるのだと認識した。
 ドアを開けてから、それは、ほんの一瞬の事だった。慣れているのか、それとも緻密な計画をしていたのかわからないが、どちらにしろ効果は充分だ。多分、もう一度同じ目に会うとわかっていても、僕はあっさりと倒されるのだろう。
 肩に足をかけ抑えるのとは別に、腹を靴先で蹴り上げられる。侵入者は一人ではない。僕は闇の中でそれに気付いた。敵の数の方が多い。その事実に、漸く恐怖が沸き起こった。
 苦痛に口をあけながらも、息を吸うことも吐く事も出来ず、声も上げられない。僕はただ、下になった押さえられていない腕で、蹴られる腹をカバーしようと左手を伸ばす。だが、それはあまり意味のない抵抗で、攻撃が止まる事はない。
 肩に乗った足が外され、そこを蹴られる。無意識に両腕は腹部を抱えた。
 仰向けになった僕の目に、狭い廊下に立ち僕を見下ろす男が二人映った。けれど、その視界はぼやけ、はっきりと男達の顔を見る事は出来ない。閉じたくはないのに、落ちる瞼。遮られた視界の変わりに、僕に笑い声が落ちた。
「声が出ないらしいから口は良いだろうけどさ、腕は縛っておく方がいいよな」
 真上から落ちるそれは、僕の肩を押さえていた男だ。まだ若い声。
「ああ、そうだな。何かないかな」
 そう返事をするもう一人の声も似たようなもの。僕と変わらない歳なのだろう。
 襟首を引っ張られ、僕は壁に凭れるように座らされた。その動きに、腹が悲鳴を上げる。鈍い痛みと引き攣るような痛みは、僕の鼓動を速めた。
 恐怖が少し薄れ、状況をみようと頭が働き始める。パニックにはならないよう、無意味な言葉を思い浮かべ自分を落ち着ける。
「おいおい、気を失ったとか言うなよ」
 ガツンと頬に重い痛みが走り、同時にその勢いで壁に頭を撃ちつけられる。目を閉じた暗い視界だというのに、小さな白い光がチカチカと瞬いた。それがとても不快で、吐き気が込み上げる苦痛の中、僕は目を瞬かせながらも細く開けた。まともには開かないが、閉じているよりも幾分かましだ。
 状況は、好ましくないという意外にはわからない。ならば、そう。自身で見極めるしかない。
 そんな僕に男達は説明とまではいかないが、それに近い会話を交わした。
「っでさ、どうする?」
「ああ、死体なら買ってやるって言うあれか?」
「そう。これなら簡単に殺れそうだぜ」
 でもな、と相手の言葉を受けながら、僕の前に居た男がコートから掌ほどのナイフを取り出した。暗い中でそれを手にするのは不安だったのか、男は壁を探り電気をつけた。一瞬眩しい光が落ちるが、周りを確認できる程度に、直ぐに照明を絞る。
 見上げた先には、濃いサングラスを掛けた男が二人いた。それ以外に特におかしなところはなく、髪型や服装から、やはり今時の若い青年だと知れる。
 この時間とは言え、こんな格好であるのなら、何処かで僕の帰りを待ち伏せしていたのだとしても、大して不審がられはしなかっただろう。
「俺、殺しまでしたくないぜ。弾みで死ぬんならともかくさ、何か嫌じゃん」
「俺もどっちでもいい。充分金は貰ってるし」
「だろう。なら、まずはそれをやろうぜ」
「ああ、そうだな」
「さっさとやろうぜ。俺、何か腕を縛るものを取ってくる。見張っておけよ」
 前に居た金髪の男はそう言い、ナイフをもう一方の長髪の男に渡した。
 会話からして、あまり緊張感がない。罪悪感もないのだろう。それに加え、頭の中身もなさそうだ。
 本当に、捨て駒か何かの、ただの血の気の多い若者で、金で僕を暴行しろと請け負っただけのよう。だが、一体誰から? 少しは立場をわかっているのか、依頼者の名前を男達は口にしない。
「おい、何か、バットかそんなものあったら、持って来いよ」
 無造作にナイフを僕の喉に当てたまま、長い髪を耳にかけながら、男が中に向かって声をかけた。その言葉に、僕はサックスを思い出したが、「っんなもんねーよ」との返事に、ほっと小さく息を吐いた。そして、無意識に手を握り締めた。
 蹴られた腹と、肩は痛いが、今のところ他は問題ない。だが、男たちの口ぶりからすると、まだ僕に危害を加えるのであろう。そう、始まったばかりなのだ。
 手を、指をどうにかされるかもしれないと、ふと思いたった。口ぶりから、僕目当ての犯行だ、命令をした者は僕がサックスを吹く事を知っているだろう。なら、それが出来ないように、この男達に命じているかもしれない。
 その考えに、僕は背筋を震わした。冗談じゃない。
「何にもない部屋だ、使えねぇ」
「何だよ、素手かよ。俺、殴るの嫌なんだよね、手が痛い」
「物干し竿ならあったぞ」
「ば〜か」
 男達は僕が喋らないとの情報から、耳も聞こえないと思っているのだろうか。僕に話し掛ける事はないが、馬鹿な無駄口を叩いている。それとも、声など聞かれても、全く問題がないと思っているのだろうか。
 状況に合わない、どこか和やかでもある雰囲気。そこに僕が助かる隙はないのだろうか…。
「ほら、これで縛れよ」
 戻って来た男はネクタイを持っていた。ナイフとそれを交換し、金髪男がバッと足を振り上げた。肩を蹴られ、僕は壁伝いに体を横たえた。直ぐに長髪の男が僕の片腕を取り上げる。
 体の下になった腕も捕られ、必然的に仰向けになる。抵抗しようにも、体重を掛けた片足で、腕ごと上半身を押さえられどうにも出来ない。
「じゃあ、取りあえずは、やるか」
「死んだらその時ってな」
 必至で僕は腕に力を入れ、拘束されないように手を離す。
 それぐらいしか出来ることはない。何をどうすればいいのか、頭が答えを出さない。

 ただ。
 ただ、何故こんな状況に陥っているのか。今はどうでもいい事を、頭の隅で考えようとしていた。誰が何の目的でとわかっても、この状況が好転するわけではないのに。

 天川司の顔が浮かぶ。
 これは、あの男がしていることなのだろうか。何事にも踏み切れない性格だったのは、幼かったからだろうか。年を重ね、それなりに覚悟や精神力を鍛えたのか。だから、こんな事を…。
 僕の頭に、もう一人の男の顔が浮かんだ。

 それとも、佐久間さんが、これにかんでいるのだろうか…。


 今の僕に、答えを知る術はない。

2003/03/18
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