# 34

 車のクラクションは、何故あんなにも心臓に悪い音をしているのだろうかと、常々思っていた。知り合いを見かけて挨拶をかわすにはあまりにも適さないものだというのに、当然のようにそれは良く行われている。理解出来ない行動だ。本来の意味である注意を促すものとしても、あれでは音そのものに気をとられてしまいそうだ。あの音は間違っている。僕はそう思っていた。
 だが、今夜は、鳴らされれば苛立ちさえ持つような音が、不快ではなく、耳に残らない小さな音でしかなかった。そう、鳴り響くその音に、僕は何も感じなかった。警笛ではなく、間違いなくそれは僕に向けられる怒りの音なのであろうが、一方的なそれは、やはりただの音でしかない。
 そう思うと、一瞬で興味がなくなる。クラクションなど、どうでもいい。
 右から左へと流れたトラックを見送る僕は、座り込んだ地面が冷たい事に気付き、視線を落とした。アスファルトは、冬の寒さを吸収したかのように、とても冷たい。
 何だって、僕はこんなところに座っているのだろうか。暗い地面に、漸くその事にを思いつく。
 だが、立たねばならないことは覚えているが、立つ気力が湧かない。自分が轢かれそうになったのはわかるが、それはもう過ぎた事で、このまま座っていたらまたそのチャンスが巡って来るのだろうが、それを待つ気もない。なのに、立てない。
「…おい、大丈夫か」
 後ろを振り向く力さえ僕には無く、だがその声と同時に体に感じる違和感に、更に視線を落とした。そこには、僕のものではない、腕があった。
 その腕は、微かに震えていた。それを言葉にするように、背中から声がする。
「はあ…、死ぬかと思ったぜ、全く」
 右肩に重みがかかった。首筋がこそばゆい。
 僕は自分の体に絡まる腕を見下ろしながら、このせいで立てないのかと、疲れを覚えた。早く避けて欲しい。
「おい、本当に大丈夫だよな、保志?」
 僕が顔を向けると、僕の肩から乗り出すようにして視線を合わせ、後ろにいた青年がにやりと笑った。
「お前でも、驚く事があるんだな」
 そう言い、青年は「よいしょっ…」と声をかけながら立ち上がる。一体何の事だろうか。
「ま、轢かれそうになったんだから、当然か。ほら、お前も立てよ」
 腕を掴み、彼は僕を引っ張った。体形は変わらないのに、青年の方が力はあるようで、軽々と僕は持ち上げられる。だが、僕はそこで漸く、足に力が上手く入らない事に気付いた。体全体が、小刻みに震えている。
 そんな自分に驚き、青年に支えられたまま、僕は僕を見下ろした。思わず、彼の腕を掴む手に力を入れてしまう。
「大丈夫か?」
 再びされたその問いに僕は頷いたが、それは自分でも説得力がないとわかるものだった。

 上手く歩けない僕を支え、青年が歩道の中にある、花壇の冷たいレンガの上に座らせてくれた。その後ろを、真夜中だというのにカーステレオを大きく響かせながら、車が走り去っていく。
 …岡山。
 僕が青年の腕から手を離し、彼の名前を唇にのせると、その動きが自分の名前だとわかったのか、「今度は覚えていたな」と人懐っこく笑った。だが、直ぐにその笑顔を消す。
「それにしても、どうしたんだ。いきなりマンションから飛び出してきたと思ったら、そのまま道へ飛び出すなんて…、何かあったのか?」
 隣に腰掛けた岡山は、僕を覗き込みながら言った。その視線を避けるように、僕は背中を丸め頭を抱え込んだ。…考えなければならない事が、増えた。そのことに、先程以上の酷い疲れを覚える。
「おい、どうした?」
 どこか無邪気な声だが、心配げでもある。だが、僕には今直ぐに顔をあげるだけの力も湧かなかった。何なのだろうか、この状況は。
 側で岡山が動く気配がした。前に回った彼は、数瞬の後、僕の頭をぐいっと押し顔を上げさせた。実力行使に出たのだろうが、抵抗する事も出来るぐらいの力だった。だが、僕は首の痛みに力を入れるのを諦め、素直にそれに従った。
「一体、どうし……な、何だよ、お前。これ、どうしたんだ!?」
 僕の首の傷を漸く見止めたようで、目を丸く見開きながら、岡山は手を伸ばしてきた。冗談じゃない。
 その手を叩き落し、僕は立ち上がった。いつの間にか落ち着いたのか、今度はすんなりと自力でそれが出来た。
「おいっ! ったく、何なんだよ」
 何だと訊かれても、僕が答えられる術を持っていないのを、この青年は知らないのか。知っているだろう、僕の声が出ない事は。
 八つ当たりとしか言えない怒りが僕の中に浮かび、目の前の青年に向けられる。睨んだ僕を、岡山は戸惑いながらも睨み返して来た。
「こっちはな、心配しているんだっ。何だよ、その態度はっ!」
 強い視線。それに感化し、僕も頭に血を上らせる。だが。
「あ、おいっ!」
 直ぐにクラリと僕は眩暈を起こした。首の傷は大したことはないのだが、この短時間の間に起こった事を考えれば、倒れてもおかしくないだろう。自分の体調をどこか冷静に分析しながら、僕は重力に従った。
 地面に膝をつき、花壇で体を支え俯いた僕は、込み上げてきた吐き気を堪えきれずに嘔吐した。息苦しさと気持ち悪さに、生理的に涙が浮かぶ。吐瀉物から顔を背ける代わりに瞼を閉じると、あのナイフが突き刺さった掌を思い出した。そして、また吐く。
 掌を染めていく血。それとは逆に、指先はとても白かった。
 想像もここまでくれば大したものだと誉めたくなるようなほど、僕はあの男にシンクロする。そう、まるであの光景が自分の手のように思えてならなかった。あれは、僕の掌だ。そう思った瞬間、肌が粟立った。
 そして。

 赤い、赤い血に、過去の光景までもが、呼び起される。
 真っ赤に染まった、床、壁、人間…。
 どれもが、先程までなかった、たった一つの色に、侵されていた。
 赤を纏った友人の細い指が、僕からゆっくりと離れていった。僕の赤が、彼に移った。
 だから。
 だから、僕はそれ以上侵されなかったのだろうか。

 あの後、降り注いだ赤い雨に、僕が喰われる事はなかった。

 僕が失ったのは、ただの、声だけだった。

2003/03/21
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