# 35

 気付けば僕は座らされており、隣に座った岡山に背中を擦られていた。先程とは違い、花壇のレンガに背を預けるように地面に直接腰を落としていたが、嘔吐した場所から移動しているので、問題はなかった。だが、記憶が飛んでいるというのは、気持ちの良いものではない。
 手の中にはいつ持たされたのか、冷たいお茶の缶があった。それを握る僕の手は、凍り固まったかのように缶から離れない。中にはブラックホールが広がっていると言われても信じてしまうほどの、真っ暗な開いたプルタブを、僕はじっと見つめた。中身は本当にお茶なのだろうか。
 もし、本当にブラックホールならば、このどこか落ち着かない思考を吸い取ってはくれないだろうか。
 ただの妄想を真剣に考え始めた僕は、それでも、小さな溜息でそれを振り切る。もし、ここで空想に逃げられたなら、もう少し楽なのかも知れない。
 そんな僕の耳を素通りしていた音が、意識と共に形をなしていく。
「――ええ、そうです。はい。…いえ、一人には出来そうにないので…はい、すみません。……ええ、わかりました」
 何を一人でぶつぶつ言っているのかと隣を見ると、岡山は見えない相手に頭を下げながら電話をしていた。そんな状態で僕の背を擦り続けるとは、器用だ。
「はい。じゃあ、よろしくお願いします。失礼しました」
 そう言いながら深く頭を下げ、岡山は電話を切った。そして、僕を振り返り、首を傾げる。
「大丈夫か? もっと、口濯いでおけよ。気持ち悪いだろう」
 もう一本買ってくるか、と缶を示す青年に首を振り、擦ってくれていた腕に触れそれを止めさせた。大丈夫だという代わりに、大きく、深く、僕は頷く。
「そうか」
 軽くぽんぽんと僕の背を叩いて腕を降ろした岡山に、僕は地面を手で叩き注意を引いた。そして、そこに文字をゆっくりと示す。
【なぜ、ここに】
 吐いたからか、時間が経ったからか、落ち着きを取り戻し始めた僕は、頭を動かす努力をする。そうすれば、少しはあの光景を忘れられる気がした。未だ、目の前を赤い血がちらつくのだ。
 何故、青年がここに居るのだろうか。僕のその問いに、岡山は簡潔な答えを口にする。
「見張っていたから」
【なぜ】
「……それは、上からの命令で…俺は知らない」
 気まずげに言う岡山に、僕は息を吐き、片手に持ったままだった缶に口をつけた。含んだものを口の中で転がし、横を向いて吐き出す。そして、地面に缶を置き、再び息を吐いた。
 中身は、何の変哲もないお茶だった。何となく、面白くない気がする。
「それより、どうしたんだよ。…首の血は、止まっているようだが、顔はさっきより腫れたぞ」
 そう酷くはないし、もう腫れないだろうけど、明日には色が変わるぞ。少し茶化すように、笑いを含めていったが、岡山のその声は硬かった。
 口内が切れた様子はないのでそう酷くはないと思っていたが、それでもやはりはっきりと、殴られた型は付いているらしい。少し重い感じがしないでもない頬に、僕は指を伸ばした。冷え切った指先と違い、そこは熱かった。
【なぐられて、さされた】
 これ以上馬鹿な言葉はないだろうと言える文字を、僕は地面に記した。情けないというよりも、笑えてくる馬鹿馬鹿しさで、今更取り繕う事も無意味だ。
「っんなの、見ればわかる」
 岡山は、そんな僕の心情を構う事などなく、突っ込みを入れた。
「何故、そうなったか聞いてんだよ」
【わからない】
 理由なんて知っているわけがない。知っていたのなら、もっと僕にだって対処の仕方があったかもしれない。少なくとも、怪我をして疲れている時に、こうもこの青年に呆れられることはなかっただろう。
 踏んだり蹴ったりとはこのことだろうか。
 僕は溜息を落とし、髪を掻きあげた。どれほど冷たいといっても、指には血が通っている。掻きあげた髪は、それを僕に知らせるほどに冷たいものだった。
「わからない、ってなんだよ、それは。そんなわけないだろう」
【わからないものは、わからない】
「ったく、お前、危機感がなさすぎるな。そんな怪我までして慌てていたわりには、もうけろっとしやがって。何が、わからない、だ。心配している俺達が馬鹿みたいだ」
 岡山はそう言い、眉を顰め溜息を吐いた。口ではそう言っているが、怒っているわけではないのだろう、「ま、酷い事にはならなくて良かったんだけどさ」と安心した表情を微かに見せる。
 だが、僕はそんな岡山を真っ直ぐと見据えた。
 何が、酷い事にはならなくて良かった、だ。一体どんな危惧をしていたと言うのか。俺達と複数形で指すほど、僕はそれほどまでに心配されているのか。
 僕の知らないところでのそれは、不快なものでしかない。
「っで、何故なんだよ。どうやってやられたんだよ」
 その言葉に、岡山は理由ではなく状況を聞いているのだと気付く。だが、それには答えず、僕は話題を変えた。
【だから、つけていたのか】
「何…?」
【ボクが、心配? だから、みはっていた】
「ああ……ま、そういうことだな」
 しまったとでも言うように、岡山は表情を変えた。
「ま、そんなこと気にするなよ。俺がいたから、お前、車に轢かれずにすんだんだしさ」
 確かにそうかもしれないが、それとこれとは別だ。
【なぜ、まだいたんだ?】
「……なぜって…」
 何故家に着いてからでさえ、岡山はここに居たのか。いつまで居るつもりだったのか。先程は上の命令だからとはぐらかされた質問を、僕はもう一度繰り返す。
 普通、心配だからと単なる顔見知りの人間の後をつけるだろうか。しかも、ヤクザがだ。しかし、僕がつけられたのは紛れもない事実なのだ。ならば、嘘だと疑うのはその理由だろう。
 そう、心配だという言葉を素直に信じるほど、僕は世間知らずではない。
 その言葉を鵜呑みに出来るほど、単純でもない。
【心配というが、その心配は、いつおわるんだ】
「……」

 僕の質問に、岡山は明らかに戸惑っていた。そして、苛立ってもいた。
 僕をちらりと見、視線を外した後、舌打ちをする。その彼の姿は、僕を介抱してくれた青年の笑みから余裕を取ったような、切羽詰ったものだった。
 確かに同じ人間なのに、別の顔をしていた。


 心配と言うのが、本当ならば。
 一体、彼らは何を心配しているのだろうか。
 少なくとも、僕自身でない事は、確かだろう。

 僕の知らない所で、僕を巻き込もうとする動き。
 今夜の出来事のように、それを避ける術を、僕は持っているのだろうか。

 たとえ、持ってはいなくとも。
 それがこの手になくとも、僕は避けなければならない。

 この男達を、構っている余裕は、僕にはない。

2003/03/21
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