# 36

 健常者は障害者を、自分よりも劣る生き物だとしてみる。差別をしているつもりなどないので、それに気付かない者が殆どだが、誰もが必ずそうしたものを持っている。そして、障害者はそれに敏感だという。
 僕の場合、自分のハンディを全くと言っていいほど意識していないので、されている事にはあまり気付かない。だが、している事には時たま気付く。本当に極些細なものだ。少し哀れんだり、軽んじたり、自分でもその時は意識などしないもの。後になってそうだったと気付く程度のもの。
 何だかんだと言っても、身体的でも精神的でも、自分より機能が劣るところがあれば、無意識に比べてしまうのは仕方がない。差がある以上は、感情を持った人間なのだからそれは当然なのだ。僕はそう思う。
 だが、その劣った機能以上に、障害者は人間として劣っていると見る者がいる。知らないというわけではなく、知ろうとしない。それは確かに個人の自由だが、そんな目を自分に向けられるのは、正直気分の良いものではない。
 僕は喋れないからといって、知能には問題はない。頭は正常に動いている。僕が喋れないのは精神的なもので、見目は健常者と何ら変わらない。

 それなのに。
 目の前の青年は、今、この瞬間は、僕をそう言う意味で鬱陶しいと思っている。
 岡山の憤りは、確かに僕に向けられていた。喋れないくせに、質問をするな、考えるな。鬱陶しい。
 そして。何なんだ、こいつは。そんな戸惑いが、彼から伝わってきた。


――何かひとつが欠けると、それは目立ってしまう。君は、君の想像以上に苦労することになるだろう。

 重度の障害を持つ中年男は、唇から涎を垂らし舌を覗かせながら、傾いた首を僕に向け、定まらない視線で無意味な音を発した。
 言葉として成立する事はない、音。だが、彼の意思がそこに詰まっていた。
 ゆっくりと、奇妙に曲がった指を使ってキーボードを打ち、彼は声では伝えられない言葉を僕に伝えた。パソコンの画面に映し出されるそれは、歳相応の重みのある、僕よりも長い人生を生きてきた人間の言葉だった。
――悔しい事も、悲しい事もあるだろう。だが、私はそれは悪いことではないと思うよ。プラスになるかどうかは君次第だ。
 一見完璧に見える僕を、大変だなと彼は笑った。
 人間として認められる事が少ない僕の方が、よっぽど良いのかもしれない。だって、こうして普通に話すだけで、凄いと思われるんだよ。僕は見た目で人を騙しているんだ。
彼はそう笑った。
 だがそれは、相手を落胆させることではないのだ。その逆になりうる僕を、彼は親愛を込めてそんな風にからかった。
 彼の言葉ではなく、僕は本当に凄い人だと思った。そして、何故そんなにも強く生きられるのかと、訊ねた。すると彼は、そう思う君の方が強いと言った。他者に対しそう感じると言う事は、自分がその者よりも劣っていると認めることだ。だから、それを出来る者の方が強い。
――私は、負けず嫌いでね。誰かを強いとは思わない。でもね、自分の事は強いと思う、頑張ってるなと自分でよく誉める。
 茶化した風に言葉を繋ぎ、「こんななりだが、私はなかなか神経が図太くてね」と彼は笑った。

 その笑顔とは言えない表情と奇妙な声が、僕の頭に浮かんだ。病院を出てから一度も会っていないが、今もまだ彼はあそこに居るのだろうか。
 僕は状況には少し似合わない息を付き、目の前の青年の顔から地面へと視線を移した。
 男の言葉は、あの時の僕にはあまり理解できなかった。だが、再びこの社会の中に身を置き、それを体験した。想像以上に大変である事を実感した。だが、それを苦痛だとは捉えなかった。
 僕が喋れないのが個性なら、僕から目を背けたり不躾に眺めたりするのもまた、その者の個性なのだと思えば、特に腹立たしい事でもなかった。
 だが、さすがに凹んでいる時にこうもはっきりとそれを示されると、少し苛つく。
 僕とて善人ではない。岡山が僕に向ける視線と同じように、ヤクザというだけで、忌み嫌っている部分もなくはない。いや、はっきりと下げずんでさえいる。確かに差別と言えるだろう。だが、やくざに対してのその差別が悪いとは思っていない。
 そう、そんな罪悪感さえ湧かない僕のこの感傷は、自分勝手なものでしかないのだろう。それは充分にわかっている。わかってはいるが、それでも今夜は堪えてしまう。
 自分と歳は変わらないとはいえ、堅気の若い男だという以上の、喋れない哀れな奴だといった認識を、岡山は僕に対してしている。いや、哀れんでなどはいないかもしれない。今までも喋れないのは面倒だと思いつつも普通に接してきていのだから、そういった同情はないのかもしれない。
 だが、僕のハンディを少なからずとも誤解し、自分勝手に色々と思っているのだろう。そう、自分よりも弱いものだと思っている。喋れないのと同じく頭で物事を考えないと思っている節がある。
 だからこそ、僕にまともな話をしないのだ。反撃する僕に、戸惑うのだ。
 言葉を濁す岡山に、僕は、健常者から障害者への差別をはっきりと感じた。仕方がないものだとわかっていてもやりきれないものを、この時、僕ははじめて感じた。


【ボクはいえにかえりついた、なのに、なぜ】
「……」
【なぜ、いたんだ】
 文字を記す指が、早くなる。これでは岡山には読み取る事は出来ないだろう、そう思うのに、止められない。
【いつまでいるきだったんだ?】
 上からの命令とは、一体どんなものだったのか。心配? そんなもの、家に帰り着けば寝るだけの僕に必要ない。第一、筑波直純が気にしている佐久間さんは、天川司を連れてきて以来店には来ていない。僕との中に何かがあったわけでもない。それとも、彼が僕に何かをすると危惧する出来事でもあったのか。
【心配とは、なにに対してだ】
 僕はそう記し、自身でその文字を書いた地面に目を奪われ、手を止めた。
 そう、あるじゃないか。
 ひとつだけ、ある。僕は自分自身でその答えを導き出す。
 筑波直純もまた、天川司絡みなのだ。先日の事をこの岡山から聞き、今夜のような事が起こると思い見張りをつけたのかもしれない。
 だが、直にその考えを僕は否定する。
 気に食わない佐久間さん相手ならともかく、天川司と僕との関係に首を突っ込む理由がない。あくまでも、あれは僕と天川司の事でしかないのだから。
 それとも、天川司を使い、筑波直純は何か佐久間さんに仕掛けでもするのだろうか。僕との事を良いチャンスだと思ったのだろうか。それとも…。
 僕はそこで、バラバラでしかない、同じパズルなのかさえもわからないピースに匙を投げた。疲れた頭で考えても、答えなど出ないだろう。僕が襲われたのと、何故か本人は見張っていたという岡山が近くにいたのとがわかっている事で、それだけで真実を見つけ出せるほど、簡単なものではない。
 第一、今夜の事はまだ天川司と関係があるとは限らない。もちろん、佐久間さんとも。
 そう、佐久間さん個人でこんな事は絶対にしないと、僕は断言できる。その程度には、僕は佐久間さんを知っているつもりだ。尤も、彼の方が、一枚も二枚も上手だろうが。
 ふと、僕に笑顔を向ける佐久間さんの顔を思い出した時、僕の中に新たな仮説が浮かんだ。
 僕は、黙り込んでいる岡山に目を向け、じっと見つめた。
「…何だよ」
 先程の質問に答える気はないと眉を寄せる青年に、僕は頭を振り、今度はゆっくりと地面に文字を記した。それを追う内に、岡山の雰囲気が硬くなって行く。
「馬鹿野郎っ! 先にそれを言えっ!!」
 部屋に入る時にやって来た男二人に暴行された。そのあい、弾みで男の一人の手にナイフが刺さり壁に串刺しになった。その隙を突いて逃げてきた。
 僕の簡単な説明を理解し、岡山はそう怒鳴った。
 演技だとは、思えなかった。

 理由はわからないが、襲った男達は、筑波直純が仕向けたのかもしれない。
 僕の頭に浮かんだ仮説は、岡山の態度で消えた。少なくとも、この青年はそうではないといっている。ただ知らされていないだけなのかもしれないが、暴行計画の見届け役ではないようだ。

 ならば、本当に何故、岡山はあそこにいたのか。

 それを思いながらも、僕はまだ確信を得たわけではないが、筑波直純が直接関係していない可能性に、何故か少しほっとした。

2003/03/21
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