# 37
今一番今夜の件で濃厚だと思う人物は、天川司だ。だが、僕を気に食わないと思う、全く別の誰かがやったという可能性もなくはない。
残念ながら、僕は他人に対してあまり感心がないので喧嘩を売った相手の顔など覚えておらず、名前を上げる事は出来ないが、そう言った人間もそれなりにはいるだろう。そう、今夜の事は、日頃の行いの結果なのかもしれない。
喉もとを過ぎれば熱さを忘れるというのだろうか、結局は大した怪我もなかった僕は、犯人が誰であるのかなど、どうでもよくなってきた。それよりも、隣で騒ぐ岡山がここにいる理由の方が気になるというもの。
だから。
「もっと早くわかっていれば、そいつらを捕まえたかもしれないのに。落ち着いてるから、顔見知りと喧嘩でもしたのかと思った。畜生、もっと慌てろよ。さっさと言えよなっ。何考えてんだよ、全く。…おい、聞いてるか?」
僕の説明の遅さに怒り悔しがる青年に、僕はこれからとる行動を教えた。
【へやへもどる】
「は…? だ、駄目だ! 駄目に決まっているだろうっ」
何を言っているんだ、と岡山は僕の腕を掴み、ぶんぶんと頭を振った。
「まだそいつらがいるかもしれないだろう!」
…矛盾している。今自分でもう逃げて捕まえられないと言ったばかりなのに。
【いるわけがない】
僕はそう書きつつ耳を済ませた。いい加減、指先が擦りすぎで痛くなってきた。寒い真夜中に、一体何をしているんだ、僕は。
耳は、静かな夜を捉えていた。サイレンの音も、特に人が動く気配も感じない。真夜中とはいえ、あの男の叫び声を聞き顔を覗かせた住人は何人かいただろう。彼らが警察を呼ばなかったという事は、それ以上は特に動きがなかったということだ。
男達が未だに居座り続けているのは考えられないし、彼らが不本意にもそうせざるを得ない事態も来ていそうにない。ナイフが抜けないが救急車も呼べないと、馬鹿みたいにどうする事もなく止まっているのならば話は別だが、まさか、それはないだろう。
【とっくににげている】
静かなものだと、僕は辺りを見回し岡山を見た。部屋に残っているのは、血痕ぐらいだろう。あの男達がその始末をつけたとも考えられない。
「でも、駄目だ。何かあったら不味い」
何が一体不味いのか。危ないではなく、その意味ありな発言に、僕は軽く眉を寄せた。そして、立ち上がる。
なら、お前も来ればいい。僕はそう岡山に合図しながら歩き始めた。体調は良いとはいえない。蹴られた腹も痛いし頭もまだ少し回っている感じがし、ふらつきそうだ。だが、取り乱した時の事を考えれば、意識がはっきりしているのでマシというもの。
「だから、駄目だと言っているだろう!」
数歩も行かないうちに掴んできた岡山の腕を払い退けるが、直にまた捕らわれる。それでも僕は、意地になって前に進んだ。
はっきり言って、状況を理解していないのはこの青年の方だ。
僕は怪我をしているし、気分も良くない。その状態で、この冬の寒い夜空の下で地面に座り込んでなどいたくないのだ。きっともう第二弾の襲撃はないだろう。ならば、さっさと部屋に帰りたいと思うのが普通だろう。大丈夫かと気遣うくせに、何故止める。
要するに、思い通りにならないのが気に食わないというところだろうか。だが生憎、僕にも意思はある。
「いい加減にしろよっ、保志!」
岡山がそう怒鳴った時、ピピピと電子音が上がった。彼の携帯電話だ。
「はい、…ええ、はい」
電話を片手に返事をする岡山は、それでも僕の腕を掴み、行かせまいとする。いい加減にするのは彼の方だ。
そんな岡山は、僕が先程語った話を電話相手に聞かせた。そして問う。
「それで、マンションに帰ると言っているんですが、どうしましょう?」
僕の行動をその電話の相手に伺う岡山の腕を払い、僕は再び歩き出す。余計な体力を使わせないで欲しい。第一、何故そいつに伺いをたてている。
「あ、おいっ!」
慌てて僕を追ってきた岡山だが、止めるのを諦めたのか、僕と一緒に歩き出した。
「ええ、そうなんですよ。……はい、わかりました。失礼します」
通話を切った岡山は、深い溜息を吐いた。
「ったく、お前って、頑固だな」
がしがしと頭を掻き、再び溜息が落とされる。
「もう暫くしたら、筑波さんが来る」
その言葉に、足を止めないまま、僕は天を仰いだ。
何故来るんだ。
しかし、そんな質問は意味がないのだろう。僕はそのまま真っ直ぐと部屋を目指すことにした。
だが、残念ながら帰っても、直ぐに眠りにつく事は出来ないらしい。
帰り着いた僕を待ち受けていたのは、惨状だった。
鍵のかかっていないドアを開けて中に入り、足元に落ちていたペットボトルで、僕は躓いた。もしそれを回避していても、次には傘とカップ麺のトラップが続くのだ。そのどれかにひっかかるのは必然な事なのだろう。
そして。
壁には赤黒い掌の半分ほどの染みが目線の高さにあり、そこから幾筋もの赤い線が床まで延びていた。
僕はそれを数瞬間眺め、部屋の中に上がった。その後を岡山がついてくる。先程の男たちとは違い、ありがたい事に、きちんと靴を脱いで。
部屋の中は、男の一人が掻き回したのだろう、いくつかのものが床に転がっていた。だが、少し整理が出来ていない部屋というだけで、特に被害はない。きちんと棚に置かれたままのサックスに、僕は小さく息を吐く。
元々物がない部屋なので、それ以上散らかす事も、必要もなかったのだろう。第一、普通男の一人暮らしの部屋にバットなどないというのは、男にもわかっていたはずだ。そして、代用品も思いつかなかったのか、考えるのが面倒だったのか、探した形跡は余り窺えない。
僕は直にでも座りたかったのだが、タオルを濡らし、固まった首の血を拭った。しかし、ピリリとした痛みと共に肌を伝う微かな温もりを感じ、傷口を開けてしまった事を悟る。仕方がないので、そのままタオルを押しあてていると、部屋を見渡していた岡山が気付き、近寄ってきた。
「お前、擦ったな」
呆れながら、僕からタオルを取り、傷を見る。
「病院に行った方がいいな。取りあえず、押さえておけ。…あと少しずれていたら、頚動脈だぞ」
確かに傷はその近くだが、そう深くはない。そこまで刃が伸びていたとしても、動脈までは傷つけなかっただろう。これは僕を脅しているのだろうか。岡山の大袈裟な言葉にそう思ったが、けれども本人は本気だったようだ。
僅かに顔を顰めた後、岡山は僕に訊いた。
「痛くないのかよ?」
子供が他人の怪我を見て泣き出すような、岡山の表情はそんな風に見え、僕は口元に笑いをのせた。
「…何で笑うんだよ。わかんない奴だな。その口も痛いだろうによ」
その問いに、今度は肩を竦める。そんな僕に青年は溜息を吐いた。
怪我をしているのだ、痛いに決まっている。だが、それ以上に感覚は麻痺している。考える事が、気を向ける事が他にも沢山あり、痛みを意識している余裕がないのだろう。
氷を巻いたタオルを口元にあてられた状態で、僕はつかの間の静寂を漂う。首の傷はタオルで縛られたので、少し苦しい。だが、それでもいいから、このまま眠りにつきたいものだ。
しかし、そんな僕に、暇なのか何なのか、岡山は話し掛けてきた。
話題がないのか、決心がついたのか、先程は黙り込んだ質問の答えを返す。
「お前が部屋に帰ったのを確認したら、俺も戻る事になっている…。お前ってさ、マンションに入って部屋の電気をつけるまで、いつも一緒なんだ、気付いてるか? 約1分半。それなのにさ…今夜は待っても待っても電気がつかなかった。途中で誰かとあって立ち話する時刻でもないしさ、どうしたんだろうと気になって、見に行こうか迷っている間にお前が血相変えて飛び出してきた」
ホント、びっくりしたぜ、と岡山は静かに笑った。
一体いつから見張られていたのか。僕の習慣をわかっているかのようなその言い方に、僕は気付かれない程度の溜息を吐く。今夜は出会いたくはない事に出会い、知りたくはない事を知る。
尾行をするのなら気付かれるな。そう思う心の方が大きいが、それでも、この青年が居たからこそ、車に轢かれはせず、あれ以上取り乱す事もなかったのだろう。そう思うと、彼もまた上からの命令だといったように、僕もそれに納得でき、詰ろうとは思わなかった。
第一、とても疲れていて、今はその気力がない。
そう思い、ふと気付く。先程、岡山に対して思って事も、だからこそのものなのかもしれないと。興奮した状態の僕は、余計な事ばかりを考え、いつもは気にしない些細な態度を気にしたのだ。この青年が自分を見下していると。
それは違うとは言い切れないのかもしれないが、そうだとも言えない。僕にはわからないもの。だが、今思えば、彼もこの突然の事態に戸惑い、どう行動すれば良いのか決められずにいたのかもしれない。だからこそ、今はすんなりと話したのかもしれない。
今の僕の中に、彼に対する腹立たしさは全くなかった。彼からも、僕に対する苛立ちを感じない。僕は閉じていた重い瞼をあげ、岡山を見た。
だが、岡山は僕を見てはいなかった。
軽く眉間に皺を寄せ、何かに集中している。
「…来た」
岡山は唐突にそう言うと、バッと立ち上がり、部屋を出た。
何だ? そう疑問をあらわす前に、玄関の扉が開く音がした。夜気が温もり始めた部屋の中にすっと入り込んでくる。
「お疲れのところ申し訳ありません」
岡山の声と共に、僕の目に男の姿が飛び込んでくる。
「大丈夫なのか、保志」
壁に凭れて座る僕を見下ろした筑波直純は、僕以上に疲れている様子だった。
そう言えば。何日ぶりだろうか、この男に会うのは。
2003/03/21