# 38

 真夜中も過ぎた頃にやって来た筑波直純は、有無を言わせぬ強引さで僕を部屋から連れ出した。
 尤も、僕が腕を引く男に素直に従ったからに過ぎないのだろう。増すばかりの疲労感に、僕は抵抗する気力すらなく、促されるままに筑波直純とともに黒い車に乗り込んだ。
 運転席に座っていたのは、紹介された事のある細身の男だった。だが、今の僕に記憶の底を探り男の名前を思い出すだけの力はなく、何よりもそれをしたところで疲れが消えるわけでもないので、僕はシートに体を預けて目を閉じた。
 そんな僕に、何処かへ向かう指示を出した後、筑波直純は溜息交じりに言った。
「…お前、無防備すぎるぞ」
 重い瞼を開け、隣に座る男を見ると、じっと僕を見据えていた。暗い車内の中に入り込む、窓を流れる光が、その目をきらりと光らせた。だが、強さはない。こんな時間なのだから当たり前なのだろうが、そこには疲れの色があるだけだった。
 疲れているのに、この男は一体何をしているのだろうか。他人事ながら、少し気になった。そして、自分が疲れているのに、何故僕を構っているのだろうかとも。
 だが、そんな事は、今の男の頭の中にはないらしい。
「俺がお前に危害を加えるとは考えないのか。どこへ連れて行かれるのかと気にはならないのか?」
 男の目から視線を外し、僕は再び瞼を落とした。
「保志」
 どこか咎めるような声音。…いい加減にして欲しい。
 僕を連れて出ておいて、何を言っているのだろうか、この男は。僕が無防備だという前に、自分が強引なんだと思うべきだ。そもそも、そんな男が僕に非があるような発言をして怒るのは、全くもって筋違いではないだろうか。そう、責任転換もいいところだ。
 そんな思いが頭を浮かぶが、それは伝えるほどのものではなかった。あまりの馬鹿らしさに、僕は男の言葉を流す。
 反応を返さない僕に苛立ったのか、筑波直純は小さな舌打ちの後、バンッと座っているシートを殴った。体に伝わったその衝撃に、けれども僕は、目を開けはしなかった。
 閉ざされた視界。耳に流れる微かなエンジン音。そして、同じ狭い空間に存在する、他所の雰囲気。それは、普通ではない、裏の社会にいる男達のもの。
 何故僕はこんなところに居るのだろうか…。
 自分の投げやりが故の軽率な行動に、今更ながらに、僕は少し後悔をした。
 一体、いつになれば寝られるのだろうか。



 連れて行かれたのは、どう見てもまともではない医者だった。

 一晩中明かりが消えることはない街の奥にある、古びたビルの地下。それだけでも、人の目に触れる事はないのだろうに、更に身を隠すかのような何も無い空間を、奥へと進む。廃ビルなのだろう、通路に積まれ荷物にも埃が堪っていた。暗い空間に拍車をかける、雰囲気の悪い所だ。
 空気までもがまるで昔のそれであるかのよう。全てが、現代ではなく過去の遺物。ここに居れば、自分もまた、すぐに時を失い、埃をかぶっただけものとなるのだろう。間違っても、迷い込みたくはない場所だ。
 そんな僕の感情とは違い、前を行く筑波直純は、まるで街の中を歩いてるかのように、何の感慨もなく足を運ぶ。明かりはその手に持たれたライターの炎だけなのに、迷うことなく先へと進む。
 そして、他とは何の代わり映えもしない、薄汚れた扉の前で筑波直純はその足を止めた。数歩遅れてついて来ている僕を確認し、ドアノブに手を掻け躊躇うことなく中に入る。
 男に続き入ったそこも、通路と何ら変わらない、暗い汚れた空間だった。
「ふざけるのが好きな人間なんだ、気にするな」
 僕にそう声を掛けながら、ライターを仕舞い、筑波直純は更に奥へと続く扉を開けた。
 何の事を言っているのだろうかと首を傾げた僕の目に、突如眩しい光が入り込んできた。
 そこは、これまで通ってきた通路とは別世界の部屋だった。蛍光灯の光が目を刺激するが、それでも現れたその光景に、目を瞬かせながら僕は見入った。
 何てことはない、何処かの研究室のような、いたって普通と言える部屋だ。白をベースに、モノトーンの家具で整えられたシンプルな配色。壁の本棚には難しそうな本が並び、それは床へも達しているが、乱雑な様子はない。その横に置かれた机の上にはパソコンがあり、画面ではスクリーンセーバーになっているのだろう、桜の花が舞っていた。奥へと続く空間は白いカーテンで仕切られておりその向うは窺えないが、さほど広くはないだろう。
 本当に極普通の部屋だった。だが、それが余計に異様だった。廃れたビルの中に、こんな生活感が窺える場所があるなど、不気味でしかない。
 そして。
 極めつけは、閉じられていたカーテンから顔を覗かせた人物にあった。
「何だ、筑波か」
 そう声をかけながら、パソコンの前の椅子に腰を降ろした筑波直純に近付き、その人物は向かいあう男の髪に手を伸ばした。そして、頭を引き寄せるようにして額に唇を落とす。
「久し振りだな、寂しかったぞ」
 蕩けるような声とは、多分こんな事を言うのだろう。完全に僕を無視していることなどどうでもいいことで、筑波直純に至近距離で微笑むその人物に、僕は魅入った。
 純粋な日本人ではないのだろうが、そんな事自体は気にならない。声ばかりではなく、その全てが人間とは思えない神秘的で神々しいもので、唇に乗る笑みも、男を見つめる目も、髪や頬を撫でる手の動きも、全てが洗練された仕草だった。
 とてもではないが、僕と同じ人間であるはずがない。今なら、宇宙人だと紹介されても信じるだろう。何もかもが完璧なのだと、その人物に僕は圧倒され、コクリと息を飲みこんだ。
 まさか、こんな薄汚れたビルの地下で、目を奪われるような人間に出会うとは。醜いモグラならばともかく、一般的な常識を持った僕からすれば、有り得ないことだ。
 けれども筑波直純はそんな僕とは違い、緩く結んだ男の柔らかな絹のような、金色に近い茶色の長い髪を掴み、無情にも後ろへぐいっと引っぱり不機嫌な声を出した。
「退け」
「痛いじゃないか」
 細い白い手で頭を抑えながら、髪を引かれた男は、けれどもどこか楽しそうにそう抗議した。
「そんなまともな感覚を、お前が持っているわけがないだろう。黙れ」
 男に体を引かせ、空いた空間で筑波直純は長い脚を組んだ。そして、僕を顎で示して言った。
「首の傷を診てやってくれ」
 男はその言葉に、漸く僕を見る。
「仕事を持ってきたのか、色気がないな」
 溜息交じりに呟かれる声も、艶を持っていた。
 日本の血など、その身体には一滴たりとも流れていないのかもしれない。僕に視線を向けたその男の瞳は、薄い蒼い色をしていた。白い小さな顔は彫りが深く、手足の長い体は均整のとれたものだった。どこをとっても、日本の色など窺えない。だが、雰囲気は間違いなく、異国の者とは違った。その不思議さも、男の魅力なのだろう。
「誰だ、こいつ」
 先程知人に向けたものとは違いい、無機質な目で僕を眺めた男は、興味なさげにそう言った。
「知り合い」
「ふ〜ん。なかなか格好はいいな。趣旨替えでもしたのか、筑波」
「無駄口は叩くな」
「それにしては、あまり面白味がなさそうだ。今はこれでも、あの時はいい声で鳴くのか?」
 何なら、そっちを診てやろうか。男の言葉に、筑波直純は「いい加減にしろよ」と低く言い放った。
 筑波直純のそんな態度にも驚くが、それよりも。どうやらその姿とは違い、壮絶な美貌の男もまた、歳相応の男でもあるようだ。どこかのオヤジと変わらない、品のない発言をする。だが、それでいて不快を与えないのは、大きな違いだろう。
 尤も、筑波直純には効かないようだ。
「俺は疲れている。お前のお喋りに付き合う気はない」
「患者とのコミュニケーションだろう」
「俺じゃない。患者はそいつだ、さっさと診ろ」
 苛立ちを隠さず、けれども諦めを漂わせたような投げ遣りな態度で、男は髪を掻きあげ、崩した。額に落ちた逸れが、更に疲れた色を示す。
「そう。なら、彼と話をするか」
「…勝手にしろ。出来るのならな。そいつは喋れない」
 筑波直純のその言葉を受け、男は僕を見る目の色を変えた。それは、驚きでも困惑でもなかった。
「へえ、そうなのか…」
 とても楽しい事を見つけたというように、少し薄い形の良い唇を僅かに歪める。
「鳴かない小鳥ならば、羽を手折って籠に閉じ込めておかないとな。面白味はなくとも、希少なものには価値がある」
 小さく微笑を浮かべた男は僕へと近付き、白い細い指先で、僕の首に巻かれたタオルを取り、傷口にそっと触れた。
「でなければ、先に誰かに奪われるか――死んでしまう。世の中、そんなものだぞ、筑波」
 君もそうは思わないか?
 男が僕を見下ろし、そう囁いた。

 首の傷に触れていた指が動き、僕の頬に落ちた。
 その指先は、明るい部屋とは違い、冬の夜を感じさせる冷たさだった。

2003/03/29
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