# 39

 間違いなく人より秀でた外見を持つ男は、この部屋の主と言うのだからその人格も確かに疑わしいのだが、それでも性格はその辺の者とあまり変わらなかった。単なる男だ。尤もそれは、興味がない僕に見せる一面でしかないのだろうが。
 僕の方も、その見目には感嘆こそすれ、それ以上の感情を待ち合わせはしなかった。男の姿に見惚れはしても、それが好意に繋がる事も畏怖すべき対象だと定める事もない。ただの綺麗な者にしか過ぎなかった。

 別に大した傷ではないが縫う方が早く治るだろう、と言う男に、筑波直純はそれを承諾し、さっさとやれと不機嫌に言った。その声と言葉に少し眉を寄せながら、僕はそれを拒絶した。冗談じゃないと。
 縫えばその後の処置も必要になる。その為にここに通う事など僕に出来るはずもなく、ましてやこんな所で治療された傷を、きちんとした医者での診療に変えるのも面倒で、僕は止血だけを男に頼んだ。
「患者は、お前じゃなく、こいつだ」
「いいから、やれ」
「嫌だ。しなくてもいい面倒を俺はする気はない。そんなに縫いたいのなら、お前がやれよ、筑波」
 そんな男の判断により、僕の言い分が通った。傷を消毒をされ、薬を塗られ、僕は首に大き目のガーゼを張られた。ついでにおまけだと、殴られて腫れた頬に、無造作に湿布を張られ、テープで固定までされる。
 他に痛いところはと聞かれたが、蹴られた腹や肩を見せるのも面倒なので、首を横に振る。すると、男はそんな僕の頭を押さえ、僕の首の傷をガーゼの上から軽く撫でた。
「一応言っておくが、勢い良く右を向いたりすると傷が開くかもしれない。血が有り余っていない限りは避けた方がいいだろう。ま、その傷じゃ、出血多量で死ぬのは難しいから心配はないがな」
 男の言葉を聞きながら、僕は目玉だけを動かし、僕の頭に乗った男の腕を見上げた。それに気付いた男は、一度僕の頭を軽く叩くように衝撃を与え、手を離した。
「止血剤と湿布薬は欲しければ自分で買え。薬局のもので充分だ。そうだな、痛み止めと化膿止めを出してやるか」
 ガサゴソと棚を漁り、男は薬を取り出す。本当にそれがその効果を持っているのか疑わしくなるほどの、威厳も何もない態度だ。そして、それを何故か僕ではなく、開いたカーテンの向うに居た筑波直純に向けて放った。
 男は空に飛んだそれを片手で受け止め、椅子から立ち上がり、診察室としてカーテンで区切られた空間にその身を滑らせた。
「行くぞ」
 僕を見下ろし、顎で促す。その目はどこか怒りを含んでいるような感じがした。
「なんだ、もう帰るのか」
「営業妨害をする気はない」
「俺は営業をする気がないんだがな」
 男は肩を竦め、筑波直純の背中をポンと叩き、「また来いよ」と笑った。
「お前なら、死体でもいい」
「死んでまで、お前に遊ばれたくはない」
「なら、生きている間に、また来い」
 男は涼やかな声を上げて笑い、薬を漁った棚の横にあるドアを大きく開けた。
 その先は、闇だった。
 部屋の明かりが届いた場所は、続きの部屋ではなく、先程通って来た空間と同じ、埃臭い汚れた通路だった。
 さっさと出て行く筑波直純に続き、男に頭を下げながら通り抜けると、直ぐに後ろで扉が閉まった。光に慣れていたせいで、突如真っ暗闇に落とされ、何も見えない。その中で、前を歩く靴音が響く。だが、僕は動けない。どの方向に向かえばいいのか、わからない。
「保志、来い」
 音が反響する狭い空間では、どこからそれが聞こえるのかはっきりとは捉えられない。僕は闇に目を慣らすために、目を強く瞑り、指で数度揉んだ。だが、不意にその手を掴まれる。
「直に慣れる、行くぞ」
 真上から、筑波直純の声がしたと同時に手を引かれ、僕は歩き出す。僕はまだ目が慣れないというのに、男にはもうはっきりと目が見えているようだ。一滴の光りもない闇の空間だというのに。
 男は何故か、来た時のようにライターを点ける事はなかった。

 階段を昇り、僅かに月明かりが差し込む窓がある一階に来ると、僕にも周りが朧げにだが見え始めた。だが、僕はビルを出るまで、男に手を引かれて歩いた。疲れているせいではなく、それが何故か心地いい気がしたからだ。
 だが、ビルを出ると、僕達はどちらからともなく手を放した。
 僕は歩き出す男に続きながらも、出てきた建物を振り返った。一つの明かりも点らない、廃墟のビル。少し先の街の明かりが微かに影を作ってはいるが、闇に解けるのも時間の問題のような、錆びれた建物だ。やはり、この地下にあんな部屋があり、あんな男がいるとは、それを知った今でも信じられない。
「言っただろう。奴は粋狂なんだ」
 振り向くと、筑波直純が足を止め僕を見ていた。その目をビルに向け、軽く眉を寄せる。
「闇医者も、単なる道楽だ。一方通行の通路も、こんな場所での開業も、全てがあいつのお遊びみたいなものだ。気にするな」
 気にしても、本人にも理由がないのだから、答えなど見つからない。男はそう言い、僕に視線を戻した。
 ならば、あの男本人はどうなのだろうか。
 あの性格がそうだとしても、あの見目で地下に潜り続ける事など可能なのだろうか。僕はそんな事を思った。男が言った言葉は、僕ではなく、男自身に当てはまることなのではないかと。
「世の中には、全く理解の出来ない奴もいる。ただ、それだけだ」
 その言葉であの男の話題を終わらせた筑波直純は、「俺はあいつよりも、お前の方がわからないんだがな」と溜息を吐き、歩き出した。
 僕は、あの不可思議な男に比べるまでもなく、いたって普通であり、単純な人間だと思うのだが、男の認識は未だに変わらないらしい。
 僕は足を速め、男の横に並んだ。男は僕をチラリと眺めたが、直ぐに前を向いた。
 僕にすれば、この男の方こそが、何を考えているのかわからない人間だ。


 冬の夜は長く、まだ空には帳が降りてはいるが、そろそろ早い者は動き出そうとする時間になっていた。だが、表通りに戻った僕の目には、これから眠りにつく街が映る。昼夜が逆のこの街に負けず劣らずの今夜の僕は、残念ながらまだ眠りにつけそうにない。
 男に促されるまま、停まっていた黒い車に乗り込んだ。体を預けるシートと動き始めた車の震動が心地良く、気を抜くと眠りに落ちそうになる。
 僕は冷たい窓に額を当て、ぼんやりと外を眺めることにした。だが、直にそれを阻止される。
「おい。首を捻るなといわれただろう」
 隣に座った筑波直純が僕の頭に手を置き、正面を向かせた。僕はそのまま今度は逆に首回し、僕の頭から手を離す男を見る。いや、見ようとするのだが、焦点が定まらず、目を瞬かせる。
 僕は直にその努力を放棄し、目を閉じ前屈みに座り、両手で顔を覆った。睡魔に勝てそうにない。
「縫えば良かったものを、意地を張るからだ」
 意地を張った覚えはない。第一、そんな大層な傷でもないし、そこまで男に決められるいわれもない。バカなプライドばかりではないが、それも少しあったのかもしれないと、僕は今更ながらに思う。
「おい、どうした。気分が悪いのか、どこか痛むのか?」
 違う、眠いんだ。
 自分も疲れた表情をしていたのに、何故僕もそうだとわからない。今、何時だ。眠いに決まっているだろう。痛みなんてどうでもいい。
「保志」
 …煩い。黙れ。
「どうしたんだ」
 男の手が、僕の肩にかかった。だが、その重みを振り払う事も出来ない。

 声が出せていたのなら、喋る事で眠気を押さえられるのかもしれないが、思考だけではそれには太刀打ちも出来ない。
 少しとはいえその努力も虚しく、僕はそのまま深い闇に落ちた。
 一気に深みまで落ちるそれは、何となく、小さな死を感じさせた。
 もし、本当にそれがあの世へのダイブであったとしても、僕は避ける事が出来なかっただろう。

 限界を超えていた睡魔は、僕を頭から全て飲み込んだ。

2003/03/29
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