# 42

 暫くの間、硬い表情で黙り続ける男を眺め、僕は小さく息を吐きながら立ち上がった。男がそんな僕に直に気付き、視線を向けてくる。
【帰ります】
 そう記した紙を、テーブルを滑らせ、男の前にペンと共に置いた。男はそれを一瞥し、首を振った。
「駄目だ」
 何故、と僕は眉を寄せる。
「……危険だと、何故わからない」
 苛立ちを押さえたような声に、僕は再びペンを手にする。ソファに座りなおすのも面倒なので、男の側で床に膝をつき、紙に文字を示す。
【たとえそうだとしても、あなたが心配することではない。僕の事ですよ】
 その言葉に、筑波直純は自分が座っているソファを思い切り殴った。突然のその行動に驚き、僕は男をまじまじと見上げた。何故、こうも怒るのか。
 怒りたいのは僕の方だろう。僕は男の命令をきかなければいけない立場にいるわけではないし、男にも僕の行動を支配する権利はないだから。
「…前にも聞いたが、もう一度聞く……。俺は迷惑なのか、保志?」
 握り締めていた拳を解き、深い息を吐いた男はそう言った。
 眉を寄せた目でじっと僕を見るその表情は、どこか子供のような感じがした。時折この男はこんな顔を見せる。ヤクザだというが、それを意識する事があまりないのは、このせいだろう。
 だが、それは一面であって、やはりこの男は一般人とは違う。
 心配をするだけならば、迷惑ではないだろう。そこまで人を嫌うほど、僕は人間嫌いでもなく、多くはないが少なくもない人間関係をきちんと築いている。だから、この男が嫌だという事はない。問題なのは、その行動と行動力だ。
 普通の者であれば心配するだけに終わるが、男の場合大きな影響力を持っている。昨夜の件に関しても、簡単に首を突っ込めるほどに。そして、僕の日常を壊すほどに。
 そう、その点で言えば、例え親切であっても、迷惑以外の何物でもない。男が以前、同じ質問をした日に言った、気になるというただの好奇心だけならば尚更だ。それを埋めてやる義理は僕にはない。客でもあるし、店のオーナーの関係者とかでもあるのだろうが、そんなものを理由に自分を犠牲にする誠心を僕は持ち合わせていない。
【そうですね、はっきり言って、今は迷惑だと思います】
 あの頃とは状況が違うからと、躊躇いもせずにその思いを僕は伝えた。
 男は顔を顰め、再び拳を作っていた手に更に力を入れた。そして僕を、睨みつけるような強い視線で見据える。間近でのその瞳は、恐怖はないが、空気を凍らせるほどの威力を持っていた。無意識に、僕は息を飲む。
 外す事を許されないそれに捕らえられ、僕はじっと男の瞳を見返した。明るい場所で見るそれは、はっきりと黒い瞳ではない事を教えていた。薄いとは思っていたが、少し青みがかった灰色なのだとわかった。日本人のような黒い茶色を帯びた目とは違い、それは少し冷たさを感じさせるような、ガラスめいた色だった。
「…もう遅い」
 男は僕を見たまま、僅かに唇を動かしてそう呟いた。
「言ったはずだ。嫌いになったら言え、と。その時、早くしなければ、戻れなくなると。
 ――もう、戻れない」
 確かに、そんな言葉を聞いたような気もするが、一体それが何だと言うのだろうか。
 僕は男の言葉に、痛む頬とは逆の唇を引き上げ、馬鹿にしたようないつもの笑みを浮かべる。
 その僕の笑いに弾かれたように、男が動いた。

 伸びてきたその手は、咄嗟に上げた僕の腕を掴んだ。手首に回る男の手は、微かに震えていた。骨が軋むほど、強い力だった。
 僕はその手を眺め、そして男を見る。
 戻れないとは何なのか。
 一体、男は何処へ進んだというだろうか。
 僕にはそんなことはわからないし、興味もない。だが、その男の変化に僕が多少なりとも影響しているのだろう。捕らえられた腕の痛みに、そのことを感じた。

 僕が男の腕に手を伸ばし、それを外させようとすると、男は目でそれを拒否した。
 僕はゆっくりと、唇を動かせながら首を振った。違うんだと。
 仕方なくそのままペンに手を伸ばすと、暫し考えるように手に力を入れたが、男はその手をゆっくりと離した。
【違います、別に嫌いだというわけではない。
 ただ僕は、誰かに見張られて生活などしたくはないし、自分が気にしていない事を、人に心配されるのは申し訳ない、と。そう言うことです】
 男が僕の文字を追っているのを確認し、更に書き進める。
【本当に、あなたが心配する事はない。僕を気にかけてくれるのは嬉しいが、それは必要ない。杞憂です】
「…違う」
 男の言葉に、僕は肩を竦める。一体、どう言えばいいのだろうか。進んで人付き合いをしてこなかった僕は、いい方法を思いつかない。下手に出ても、強気でいっても、男は訊き入れる気などはなからないのだ。そんな人間には、一体どうすればいいというのか。
 いつもなら関係を切れば終わりだと思うのだろうが、この男の場合はそうしても色々とする事が出来そうで、それも得策とはいえない。納得してもらうのが一番なのだろうが…、そんな芸当、僕には到底出来そうにもない。
 そう考えた時、ふと、別の思いつきをした。
【あなたは、天川さんと佐久間さんをよく知っているようだが、僕も、あなたの知らないだろう彼らを知っている】
「だから、何だ。お前に危害は加えないとでもいうのか?」
【それは、わかりません。でも、僕も切り札と言うか、対処の仕方を持っている。彼ら二人ならば。だけど、そこにあなたが入ると、それも効かなくなるかもしれない。
 子供のケンカのようなものです、僕と天川さんならば。だが、そこにあなたが入ると、あなたを気にいっている佐久間さんがもっと動きたがるのでしょう。そうなると、事が大きくなる】
 僕の言葉に、暫し考え、男は口を開いた。
「…佐久間の事はともかく。事が大きくなるというのは、確かにそうなのかもしれない…」
 自分でも思っていたのだろう、素直に頷く。
 密売人だか何だか知らないが、僕と天川が対峙するのにはそんなものは関係なく、要は友人の兄との喧嘩にすぎない。いや、喧嘩とも言えないだろう。天川と佐久間さん、そして友人の三角関係を、何が起こったのか知っている僕が、一人だけ何も知らない天川に知らせるだけなのだ。
 ただ、あっさりと僕は教えず、教えて意味のある相手かどうかを見極めるために、天川と、そして佐久間さんの様子を少し見てみようと思っている。そう、無意味な自信かもしれないが、僕にはそれをするだけの余裕が今はある。
 けれど、それがこの男の闖入により、僕には抑えられないものとなるかもしれないのだ。男の介入により、天川はその商売をする人間として立ち、そして男はヤクザとして対峙する。そうなれば、巻き込まれ痛い目を見るのは僕だろう。そんな発展など、避けたいというものだ。
「だが、相手は天川だ。あの力を持った者に、お前が太刀打ち出来るとは思えない」
【要するに、僕では力不足だと】
「当たり前だ。一介のバーテンだろう、お前は」
【その点は大丈夫です。
 もし天川さんが権力を嵩に暴走しようとしても、佐久間さんが、止めてくれます】
「佐久間が? まさか、反対だろう。お前に優しくするのは、天川のためだ。騙されるな、あいつは優しい奴じゃない」
【わかっていますよ。だからこそ、彼は僕に、大した危害は加えない】
 この男は、わかっていない。
 佐久間さんが僕をなんとも思っていない事など、利用しようとしている事など、僕は百も承知だ。だから、それを逆に僕は使わせて貰うのだ。それを、この男はわかっていない。
 そして、佐久間さんが、この男を気にいっている事も、男自身気付いていない。僕は以前それを教えたのだが、冗談だととったのだろう。
 案外この男は鈍感なようだ、と僕はそれに小さく笑った。そんな僕に男は溜息を落とす。
「お前の言葉は難しすぎる」
 男が疲れたように足を投げ出した。その足が、微かに僕の足に当たった。僕の言葉は別にして、確かに僕の方も、男との会話はなかなか疲れるもの。
【ためしにしばらく放っておいて下さい。見張りもつけないで下さいよ】
 男の言葉に軽く笑いながら、僕はそう示した。
 その言葉に、男は頷きはしなかった。
 だが、僕にはもうこれ以上話す言葉はなく、コートを着て部屋を後にした。


 漸く帰りついた小さな部屋は、昨夜の名残はない、いつも通りの部屋だった。

2003/04/05
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