# 44

 あの狭い部屋が、元々何に使われていたのか、窺えるものなどそこには殆どなかった。元々建物自体はオフィスビルだったらしいが、その名残もなかった。
 だが、ひとつだけ言える事もあった。
 あの部屋は、他の部屋に比べて、綺麗だった。壁や床の傷が少なかったのだ。
 それは、部屋が最奥にあるので面倒がり、あまり人が来なかったからだろう。きちんと使用されていた時も、物置か何かで、人の出入りは少なかったのかもしれない。
 だが、あの日。
 その部屋には、他の部屋にはない傷が刻まれた。


 友人の促す声を聞いた次の瞬間、耳を覆いたくなるような声が僕を襲った。その叫び声は狭い部屋で反響し、実際以上の音を生んだ。体に直接響く音だった。
――うああああっ!!
 米神から銃を離した少年は、震える手を伸ばすと同時に引き金を引いた。
 カチカチと、実際には音など聞こえなかったのだろうが、僕の耳にはそれが確かに届いていた。そして。
 三度目の引き金は、とても重いもののように、指がゆっくりと動いた。 スローモーションのようなその光景を、僕ははっきりと見た。
 バンッと鼓膜に響く音が響き渡った。
 それが銃声だとは、直には気付かないくらい、その大きな音に思考が停止した。
 そして。
 僕の側で立っていた少女の体が、グラリと傾き、床に倒れた。
 静寂が一瞬部屋の中に落ちた。だが、それは本当に一瞬の事だった。
――おい、ユウ? 何、白々しいことをしてるんだよ。な、起きろよ。
 モデルガンを持ったまま、笑いながら少年がゆっくりと倒れた少女に近付いてきた。
――おい、ユウってば。なあ。
 無駄だった。
 床にどんどん広がっていく血は、彼女が助からない事を示していた。黒いコートを着た姿では、僕にはどこを撃たれたのかまではわからなかったが、側の顔はみるみる白くなり、その瞳はもう何も映してはいない事はわかった。
――…じょ、冗談だろう。な、そうだよな? なあ、ホシ。
 少年が少女の肩を揺すり、僕を見て顔を引き攣らせながらも笑った。だが、答えはもう彼の中にあったのだ。その顔に、直ぐに絶望が浮かび始める。漸くこの異常な事態に気付いたのだ。
――ほら、カズ。詰め方、わかるか?
 友人の声に、縋りつくような少年の顔から視線を外しそちらを見ると、彼は事の成り行きに呆然と立ち尽くす少年に、床に転がっていた銃弾を差し出していた。
――ったく、やってやるから、手を離せよ。…今度は、二つ入れようか。
 カチャリと音をたてながら、友人は落ち着いた様子で弾を詰めた。そして、同じように弾倉をまわし、少年に持たせる。
――続きをしよう。それとも、止めるか?
 床に残った銃弾を拾いながら、友人は首を傾げて笑った。弾のひとつが、ころころと床を転がり、彼は腰を上げそれを追いかけながら言った。
――でも、コウジはあれで撃ちにくるぜ、絶対に。モデルガンでも痛いんだろうな、当たれば。いや、死ぬかもな。殺されるぜ、そのままだと。どうするんだよ、カズ?
 その言葉に、立ち尽くした少年と僕の側にいた少年が動いたのは、ほぼ同時だった。
 銃声以外の音は無かった。
 本物の銃を手にした少年が放った弾は、僕の側の壁にめり込み、もうひとつは、狙い通りだったのだろうか、対峙する少年の胸を通過した。そして、その少年が向けたモデルガンも、殺傷能力があるほどのものだったのだろう、銃を持つ少年の体にいくつもの穴をあけた。
 空中に血が沢山弾け飛ぶのを、僕は見ていた。
 倒れた人間を、僕はただ見ていた。

――怖いよな、人間は。
 声がした方を、固まりかけた頭を動かして見ると、友人が壁に凭れて立っていた。
 壁から体を起こすと、真っ直ぐと倒れた少年に近付き、動かなくなったその手から拳銃をとった。
――何をするかわからない、馬鹿な生き物だ、ってな。
 ホント、馬鹿だよと、彼は小さく笑った。
 友人は、手の中に持っていた弾を血塗れの銃に込め、僕の所へゆっくりと歩いてきた。
――悪いな、折角本を読んでいたのに、騒いじゃってさ。
 苦笑する友人を、僕は座ったまま見上げる事しか出来なかった。
 何を、何を言っているのか。
 何を笑っているのか。何を考えているのか。
 何がどうなっているのか、全てが僕にはわからなかった。いや、わかりたくなかった。
 目の前で殺し合いが起き、そして今、笑う友人が僕の前にいる。それは、夢でさえありえはしない光景だった。

――このままじゃ、俺はあいつに負けるんだ。それは絶対に嫌なんだ。
 友人はそう言いながら、すっと僕に手を伸ばした。それは、この状況では異様と思えるほどの、白い、汚れていない左手だった。その手で、彼は僕の頬に触れた。
――血が、ついている。折角の顔が台無しだ。……そんな顔するなよ。
 僕をじっと見、彼は苦笑した。そして。
――翔、ゴメンな。こんな事になって…本当にゴメン。
 笑いを消し、少年は眉を寄せた。
 今になって思えば、僕の状態もそうだが、彼もまたドラッグの影響だけではなく、不安定だったのだろう。ただ思いつくままのように、言葉を繋げ、表情を変えていたのだ。
――お前を一番に出きれば、良かったのにな…。そうしたら、こんな事にはならなかったんだろうな。俺って、ホント、馬鹿だよな。
 僕の頬を擦り、「とれないな、後で洗えよ」と肩を竦め、手を離す。
 赤く汚れたその手が離れていくのを、僕は追いかけ、友人を見た。
 …誠。
 僕は確かにそう呼んだ。だが、彼は返事をしなかった。もう、僕の声は彼には届いていなかったのだろうか。それとも、僕はその時はもうすでに、声を失っていたのだろうか。
――でもさ、俺はそれでも、やっぱりあいつが好きなんだ。誰にも渡したくないんだ。だから、こうするしかないんだ。
 友人が両手で拳銃を持ち、その銃口を胸に当てた。
――ここだとさ、確実に死ねるし、後がそう汚くないんだ。
 でも、真似はするなよ。そう言い、口の端を上げて笑う。
――なあ、翔。あいつに、司に、謝っておいてくれないか。放って逝ってゴメンってさ。
 僕はその言葉に無意識に首を振ってしまったのだろう、友人は肩を竦め、そうだよなと呟いた。
――自分で言えってもんだよな。なら、そうする。むこうでその方法を考えるよ、なんて。…いや、ホントは謝る必要なんてないか。謝らせるべきなのか? …もう、どっちでも良いや。
 そして、友人は、最期にこう言った。
――ホント、悪いな。翔…。

 大きく、悲しい銃声が響いた。
 目の前の友人が傾き、その手から銃が落ち、全てが床に転がった。
 血飛沫が僕の顔に降り注いだ。

 直ぐに静寂が訪れた。

 僕は、血に染まった本を、ただ握り締め、友人の姿を見つめていた。

2003/04/12
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