# 46

「明日、僕は当直でね、仕事は夕方からなんだ」
 三杯目のグラスを傾けながら、佐久間さんは僕にそう話し掛けてきた。
 一人で店に現れた佐久間さんは、僕の口元に残る青痣と首の絆創膏を直ぐに見つけ、どうしたのかと訊きながら、いつものようにカウンター席に座った。そして、眼鏡の奥の目を僅かに細めて僕を見、軽く眉を寄せた。
 傷はもう塞がっており大したものではないが、丁度シャツの襟で擦ってしまう位置にあるので、テープをしていた。だが、やはりそれは目立つようで、この数日同じように声をかけられてばかりの僕は、その問いに少しうんざりしながら、肩を竦めて軽く笑った。
 そんな僕に、同じように顰めた顔を緩めながら、「喧嘩でもしたのかい?」と問いかけてくる佐久間さんの様子は、真剣に心配しているようなものだった。僕は適当に頷きながら、そんな彼を見つづけた。
 程ほどにしなよ、と苦笑する佐久間さんからは、僕が襲われた事を知っているような感じは全く受けなかった。それが、演技なのか、本当に何も知らないのか、僕にはわからない。
 ただ、知らないようだと、そう感じるのが、僕に与えられたものだった。
 あの男、筑波直純ならば顔を顰めるのだろうが、僕は彼ではない。
 暴行を受けた事など態々知らせる事ではなく、まして関係があろうがなかろうがどうでもいい事だと、僕はただ、佐久間さんの忠告に口の端だけで笑い、深く頷いておいた。
 見目も雰囲気も良い佐久間さんは、僕以外の店の者とも楽しく話す。
 いつの間にか常連として覚えられた彼が、一頻りの会話を終えた後、赤いカクテルを飲みながら、再び僕に笑みを向けてきた。三杯目のそれは、佐久間さんが好きだという、シャンハイ。先程マスターが作ったものだ。
 手元のグラスに丸い氷を入れながら、僕は佐久間さんの言葉に軽く頷き、続きを促した。
「保志くんも、夕方からだろう、この仕事は」
 氷にかけるように琥珀色の酒をグラスに注ぐと、蜜のような液体の中で、ゆらりとアルコールに溶けた水が模様を描く。
「それでね。良かったら、昼から時間を作ってくれないかな?」
 僕は何故かと訊きもせずに、佐久間さんに顔を向け、ただ頷いた。そして、カウンターの端にいる客に注文のグラスを届け、再び彼と向き合う。眼鏡の奥の瞳が、微かに笑っていた。
「ありがとう。でも、何も聞かずにあっさりと頷いて、良いのかい?」
 まさか、客の誘いには全て乗っているわけじゃないだろうね。
 そうからかい笑う佐久間さんの顔が、ふと顰められ、眉を寄せて僕を見据えてきた。僕はその変化に、意味もわからず、真っ直ぐと見つめ返す。
「…保志くん、疲れているのかい?」
 落とされた言葉は、何の脈略もない、意外なものだった。何のことだろうか?
「ちょっと、失礼」
 佐久間さんはそう言い、体をカウンターの上へと乗り出しながら、僕に腕を伸ばしてきた。ひやりと冷たい手が、僕の頬に触れ、直ぐに額へと場所を移す。
 僕は数瞬の後、佐久間さんのその手首を取り、軽く押しやった。その腕は想像以上に細く、そしてやはり冷たかった。
 僕の行動に「ああ、ゴメン」と軽く笑いながら体を戻す。
「熱があるね。大丈夫なのかい?」
 僕はその言葉に軽く眉を寄せ、何のことかと首を傾げた。そんな僕に、「気付いていないのかい」と苦笑しながら、再び腕を伸ばしてくる。今度は喉を触り、軽く押さえ、直ぐに手を引いた。扁桃腺でも見たのだろう。
「風邪みたいだよ。体がだるいだろう?」
 その言葉に、自分の額に手を当ててみたが、熱が高いのかどうなのか、自分自身ではわからない。だが、そう言われれば、何だか少しおかしいと思う感覚があるようなないような…。
 僕は肌に触れた手を洗うために少し場所を移動し、カウンター内のシンクの蛇口に手を翳した。佐久間さんの言葉に敏感になっているのだろうか、伸ばした腕の関節が、少し軋んだ気がする。
 勢いよく流れる水はとても冷たく、寒さに頭の芯が小さく痛んだ。
「気付いていないと言う事は、薬も飲んでいないんだろう」
 僕を追いかける佐久間さんのその言葉に、肩を竦め鼻で笑う。そう言えば、というほど忘れていたわけではないが、この青年は医者なのだと思い出す。
 そして。  首の傷を見た、あの夜に会った医者を、僕はふと思い出す。あの端麗な容姿の持ち主は、今もあのビルの地下にいるのだろうか。どうでもいい事なのに、そんな事を考える。
「ダメだよ、保志くん。それじゃ、抉らせてしまう」
 今も結構辛そうだけど、本当に大丈夫なのか。そう問いかけてくる佐久間さんに、僕は頷いた。だが、その行動が、僕に微かな眩暈を覚えさせた。確かに、体調は良いとはいえないらしい。
 自分よりも他人にそれを先に気付かれるとは。さすが医者だというのか、僕が鈍感すぎるのか。どちらにしろ、それは少し可笑しな事だった。愉快だ、とても。
 そう思う時点で、僕の脳は相当イカれ始めているのかもしれない。頭の隅で、今の自分にそんな判断を下しながら、僕は笑った。
 本当に、馬鹿みたいだ。


 結局、その後マスターにも体調が良くないことに気付かれ、僕は予定よりも早くに仕事を終えた。客商売の、しかも飲食業で何を考えているのかという軽い叱責付きであったが、マスターはゆっくり休みなさいと僕を気遣ってくれた。
 そして。
 佐久間さんが心配だからついて行こうと、僕と並んで店を出た。表通りで直ぐにタクシーを止め、一緒に乗り込む。一応断ったのだが、彼には効果はなく、僕も強く言えるほどの気力もなかった。
 不思議なもので、大丈夫かと周りに心配される度、僕は自分の体調が酷くなっていくような気がした。病は気からとは、こういう場合でも効果はあるのだろうか。周りの顔を見ていると、ただの風邪だというのに、何だかものすごく酷いもののように思えてしまう。
 本当に、面白いものだ。だが、笑えるほどの力もない。
 コートを着、マフラーを巻いていても、外よりは温かいはずのタクシーで、僕は体を震わせた。そんな僕の背を佐久間さんは擦ってくれる。
 熱が上がってきたのかもしれない。しょぼつく目に耐え切れず瞼を閉じながら、僕は自分の体の状態を考えた。車の振動が、頭に響く。
 だが、背中の手はとても温かく、優しくて、気分は最悪だというのに、心は満足している。妙な感覚だ。

 そして、僕はそのまま、闇の中へと漂った。


 次に目を開いた時、そこはタクシーではなかった。だが、未だ体は少し揺れている感覚に襲われている。…いや、僕自身が揺れているのかもしれない。
 朦朧とする意識の中で、暗やみに浮かぶ、知らない部屋を見た。
 ここは何処だろうか…。
 その問いを頭に浮かべた次の瞬間には、再び僕は闇に沈んだ。

 何もない、闇は、僕自身も見えない。

2003/04/19
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