# 47

 …喉が乾いた。
 だが体が重く、まだ意思は覚醒し切れていない僕は、このまま闇を貪るか、喉の渇きを潤すか、その挟間で迷い続ける。
 そんな、どちらとも決めかねる僕の耳に、微かな音が入ってきたのは、葛藤をはじめてどれくらい経った時なのだろうか。とても長い間迷っていたように思えるのに、数瞬の短さだったも思える。不思議なものだ。
 カチャリと聞こえたそれは、僕に別の選択を選ばせた。状況を判断しようとするように、僕は無意識の内に瞼をあげる。その目に、見知らぬ天井が飛び込んできた。剥き出しのコンクリートだと気付くまでに、数拍の呼吸を吐く。やはり、夢ではなく、喉は乾いている。
 首を捻ると、同じような壁が見えた。少し薄暗いといった程度の部屋が、僕の頭の中で形となる。
 カーテンを閉めてはいても、闇にはならないくらいに陽が高くなった時刻なのだろう。自分は一体どれくらい眠っていたのだろうか。
 ぼんやりとそんな事を思い始めた僕の視界に、人の足が入って来た。視線を上げると、そこには佐久間さんが立っていた。
「起こしてしまったのかな? ちょっと、ゴメンね」
 熱は下がったかなと、佐久間さんはしゃがみ込み、僕の額に手を伸ばした。その手はやはり、ひんやりと冷たかった。その心地良い手が離れるまでの数瞬、僕は目を閉じ、その感触を味わった。
「微熱程度だね。流感じゃなさそうだったけど、高熱だったから心配していたんだ。だけど、やっぱり若いからかな。一晩寝れば治るものなんだね、良かったよ」
 僕なら暫く苦しんでいるかもね、もう年だよ。
 佐久間さんはそう笑いながら、開けたペットボトルにストローをさし、それを寝ている僕の口元に持ってきた。
「汗を沢山かいたからね、水分を取らないと」
 僕はその言葉に目で頷いたが、直ぐに体を動かしはしなかった。起き上がろうと思うのだが、体に力が入らず、一度大きく息を吐く。喉がヒリリと、少し痛む。
「少しでもいいから、飲もうよ」
 まるで子供を宥めるように、佐久間さんは優しくそう言い、目を細めた。僕が行動をしないのは、水を飲みたくはないからだと思ったのだろう。再びストローを揺らし、それに口を付ける事を促す。
 僕はもう一度深く息をし、ベッドの上で体を起こした。頭がグラリとし、起こしきる前に挫折しそうになったが、すかさず佐久間さんが支えてくれる。
「大丈夫かい?」
 頷く代わりに、彼の手からペットボトルを奪い、僕はストローを抜き取り一気にそれを煽った。喉をキンと冷たい水が駆け抜ける。
 半分程飲み、大きく肩で息をすると、佐久間さんは数度僕の背中を擦った。昨夜と同じように、それはとても優しいものだった。
「お腹は空いている?」
 その問いに、僕はゆっくりと頭を振る。喉の渇きを潤したからだろうか、自分の体調に漸く気付く。気分が悪いというほどでもないが、だるい。まだ、頭も体も完全には目覚めていない、そんな感じだ。
「そう。なら、悪いけど、後少しこのまま寝ていてくれるかな。僕はちょっと出掛けて来るから。今は9時を過ぎたところだから、もう一眠りしていて。そして、早めに昼食にしよう。
 ま、僕が帰ってくるまでにお腹が空いたら、勝手に冷蔵庫を漁っても良いけどね」
 もう良いかなと、佐久間さんは僕の手からペットボトルを取り、蓋をして側のテーブルに置いた。僕が体を横たえると、布団をきちんとかけ直してくれる。
「もしチャイムが鳴っても、出なくていいからね。お休み」
 1、2時間で帰るから。そう言い、入ってきた時と同じように、殆ど音を立てずに佐久間さんは部屋を出ていった。
 扉の向こうから、小さな音がいくつか聞こえた。
 僕はその音を聞きながら、直ぐに再び眠りに落ちた。


 帰ってきた佐久間さんに起こされた時、先程よりも体は楽で、僕は難なくベッドを降りる事が出来た。頭もスッキリしている。
 僕は、「汗を流して温まるだけだからね。長風呂はダメだよ、体力を消耗するから」という注意と着替えを佐久間さんから受け取り、風呂場に向かった。歩くと関節が少し痛い気がしたが、熱のせいだと言うよりも、寝すぎて体が固まってしまったような感じだ。
 僕のために用意された浴室には湯気が立ち込めていた。熱いシャワーを浴び、同じように少し熱い湯が張られたバスタブに体を沈め、僕は深い息を何度も繰り返した。体に染みわたるその熱の刺激が、とても心地良く、頭をクリアにしていく。
 佐久間さんの言いつけを守り、もう少し入っていたい気はしたが、体が充分に温まったところで風呂から出た。だが、それでもやはり長湯をしてしまったのだろうか、それほどまでに体力を失っていたのだろうか、脱衣所に出た瞬間、僕は少しふらついた。
 そんな自分に苦笑しながら、用意された新しい服に袖を通す。先程佐久間さんが出掛けたのは、これを買うためだったようだ。
 先程僕が脱いだのは、佐久間さんの服だった。僕の服は汗をかいたとの事で、一度夜中に着替えさせられていたらしい。それに気付かないほど、朦朧としていた自分には笑うしかない。そして、突然僕の面倒を見なければならなかったのだろうに、テキパキとしている佐久間さんはやはり医者だと感心する。
 態々買ってきてくれた服は、僕にぴったりのサイズだった。彼と体形はそう変わらないので不思議な事ではないが、ズボンの丈まで丁度良いとは、何とも複雑なものだ。まるで知り尽くされているよう。
 だが、当たり前のことなのだと、暫くして気付く。元々僕が着ていた服を見れば、簡単にわかることなのだ、こんな事は。ただ、佐久間さんがよく気が回る性格だというだけのことだ。
 リビングに戻ると、キッチンにいた佐久間さんは、僕を眺め満足そうに頷いた。
「うん、よく似合う。やっぱり、保志くんはそういったシンプルなものが良いよね」
 黒いタートルネックセーターは無地で、厚手のグレーのパンツは縫い目に濃紺の太い糸が使われており、ほんの少し遊び心が伺えるもの。アンダーシャツの胸元にブランド名の刺繍がされていたが、生憎僕には知らない名前だった。だが、有名なところなのだろう。着心地がとても良い。
 多分、他の上下も靴下までも同じブランドの物なのだろうが、ロゴは付いていない。同じ袋から出されたのでそうだろうと思うだけで、僕にはその真贋はない。尤も、どこかにマークが入っているのだが、僕が気付かなかっただけなのかもしれないということは、大いにあり得ることだ。
 僕は着るものには、さほど興味はない。だが、それは安いものでも気にしないと言うことであって、決して高価なものを簡単に受け取れるという無神経さではないつもりだ。
「保志くんに買ったものだからね、それは」
 僕にこの服を渡す時、佐久間さんはプレゼントだといった。だが、袖を通し、その着心地の良さに、戸惑いが浮かぶ。そんな僕に、僕がそれを伝える前に察知したのだろう佐久間さんは、からりと笑ってそう言った。
「君に合わせて買ったんだから、貰ってもらわないと僕も困る。だって、僕はそういうのはあまり着ないからね」
 君と違って、明るい色の方が僕には似合うんだよ。
 そう言う佐久間さんは、淡い水色のシャツに緑のセーター、ベージュのスラックスという格好で、腕捲りをして菜箸を握っていた。
「迷惑だったかな。でも、僕もそうされたんだから、これでチャラだ」
 君の世話をしたんだから、それくらい大人しく受けとってよ。わざと口悪くそう言い、佐久間さんは箸をカチカチと動かして笑った。
「ま、風邪のお見舞いか、それとも少し早いクリスマスプレゼントか、何でも良いんだけどね。僕は君に着せてみたかったってだけだから、その理由が気にいらないのなら、悪いけど納得いく理由を自分で決めてよ」
 無責任な事を言い、佐久間さんは背中を見せた。カチカチとガスを点けながら、「そこに座って、昼食にしよう」と、話はこれで終わりだというように僕をテーブルに促す。
 強引と言うか、マイペースと言うか。さすがこの男だ、と言うものなのだろう。僕の扱い方を良く知っている。
 僕は肩を竦め、進められた席につき、軽く口元で笑った。不必要に物を贈られるのは困るが、佐久間さん相手ではそれを断りきる術を自分は持たないのだと、あっさりと僕は白旗をあげる。そんな僕を知っているからこそ、軽口でこの男は流すのだろう。
「料理はね、そう得意じゃないんだよ。でも、不味くても確り食べて」
 非情な事を言いながら、佐久間さんはテーブルに皿を並べた。そして、最後に大きなペットボトルをドンと置き、「水分もたっぷり摂らないとね」と僕の前の席についた。
 並べられた料理は、病み上がりの僕に合わせてだろうシンプルなものだった。海老やコーンが入ったミルク粥に、ハムとクルトン入りのほうれん草サラダ。そして、兎のように切られた林檎。
 僕がそれに笑うと、「外科医だからね、手先は器用だよ。保障出来ないのは、味だよ、味」と、佐久間さんは笑った。
 だが、その言葉とは違い、それらはとても美味しかった。

 柔らかい粥は、まるで佐久間さんのように、僕には優しく、温かいものだった。

2003/04/19
Novel  Title  Back  Next