# 52

「今夜は、仕事じゃないのか」
 どちらからともなく人の流れに身を乗せ歩き出した時、筑波直純がそう聞いてきた。僕は首を横に振る。
「そうか。なら、…時間は空いているか?」
 その問いにも、僕は同じように首を振った。横断歩道で足を止め、前を向いたまま、「そうか…」と男が呟く。始まったばかりの夜の街は賑やかで、その声は聞き取り難く、どこか残念そうな声音に思えた。
 何か用があるのか。そう問いかけようと、男へと伸ばしかけた僕の腕は、そこに触れる事はなかった。コートのポケットで携帯が振るえたのだ。僕は一度軽く手を握る事で行動を変え、携帯を取り出す。
 佐久間さんからのメールだった。
 もう少ししてから病院を出るので、少し遅れそうだという連絡だった。僕はそれに、わかりましたと返事を返し、別の操作をした。同じようにメール機能で言葉を作り、隣の男に問いかける。
【この後人と食事をするんですが、その後なら空いています。何か用ですか】
「いや、特に何てことはない。酒でも飲もうかと思っただけだ。約束があるのならいい」
 クリスマスも近いからなと、装飾を施された街路樹を少し見上げながら、男は軽く笑った。
「デートか?」
 まさか、と僕は首を振り、肩を竦めて笑う。何だか、この男に色恋話は似合わない気がする。
「いい年をした男が、そうはっきりと否定するのも、何だか寂しいな」
 そう笑う男の声を聞きながら、僕は何も考えずにボタンを押していた。
【相手は佐久間さんですよ】
 僕は佐久間さんが嫌いではないので、深く考えずにそう言ってしまったのだが、男の顔が歪むのを見た瞬間、少し後悔した。男は佐久間さんが嫌いなのを忘れているわけではないが、もう少し気をつけなければならないのかもしれない。
 教えずともいい事を、何を自ら暴露しているのか。正しく今の自分の発言は軽率なものだったと、僕は男に向けた携帯の画面をパタリと折り畳む。
 そして、僕は曖昧に、口元に笑いをのせた。それしか出来ない。男の硬い表情に、出てしまいそうになる溜息を飲み込み、軽く肩を竦める。だが、気まずい沈黙は、簡単には消えてくれない。
 信号が青に変わり、動き出した周りに少し送れ、僕も足を運び出す。男もそれに続いたが、その空気をそこに置き去りにすることはなく、一緒に持ち運んできた。
「……お前は、俺をからかっているのか?」
 落とされた声は、やはり先程までとは違い乾いたものだった。
「これから会うのは、佐久間なのか、本当に?」
 前を見たまま頷くと、隣で男は舌打ちをし、僕の肩に手をかけ足を止めさせた。
「何を考えているんだ、お前はっ」
 他の歩行者が、僕達をチラリと眺め通り過ぎていく。
「あんな事があったというのに、お前、佐久間の部屋に泊まったというじゃないか」
 何故知っているのだろうか。その疑問は、直ぐに男により解決される。
「俺がその事を佐久間から聞かされた時の気分がわかるか!?」
 佐久間さんがどんな風に、先日の事をこの男に語ったのか。それは何となくわかるような気がする。多分、彼は嘘はつかなかっただろうが、全てをありのまま話しもしなかっただろう。男をからかうため、何でもない事を何かがあるように話したのだろう。
 尤も、男にとっては、嫌いな佐久間さんと会ったというただそれだけで気に入らないのだろうと、睨みつけてくる男の顔を見ながら僕は思う。
「あいつには関わるなと何度も言っているのに、お前は全く聞き入れない。大丈夫だなんて、そんな保障は何処にもないんだぞ、保志。わかっているのか!?」
 僕は男の顔から視線を外し、肩にかかる手を見つめ、溜息を吐く。普段はどこか冷めたような人間でヤクザと言う雰囲気もあまりないというのに、佐久間さんに関しては、男はその感情を見せる。カッと頭に血を上らせる短気さは、やはりヤクザだと納得してしまうものだ。
「本当に、危ないんだと何故わからないだ。もっと気をつけろ。何だって、佐久間と食事をすることになっているんだ」
 言い争いなどこの街では珍しくない光景なのだろうが、やはりこの男の場合は人目を引いてしまう。何より、対峙する僕は反論をしないので余計にだろう。正しく、ヤクザに絡まれているという構図が出来上がってしまっているのか。
 男の言葉を耳に入れながらも、僕はこの状況に嫌気がさし、もうどうでもよくなった。肩に乗った男の手を払い、踵を返す。
「保志っ!」
 もういい加減にして欲しい。
 心配されているのもその理由もわかる。だが、僕はそれが嫌なのだ。確かに今夜の事は、僕の失言が招いた事なのだろうが、根本的には男と僕の意見が全く噛合わないところにある。どう話し合おうと、僕達は平行線を辿るしかないだろう。
 話すだけ無駄だ。
「行くな」
 僕の手首を捕え、筑波直純は再び僕に足を止めさせた。
 僕は男の顔を見、首を横に振る。
「…駄目だ」
 拘束された手を解く事は出来ず、仕方がないと、僕は楽器ケースを地面に降ろし、その手で携帯を操作した。
【ただ、食事をするだけです。僕の交友関係に、何故そこまであなたが口を出すんですか】
「言っているだろう、心配だからだ」
【言っているでしょう、心配はないと。それにたとえ危険でも、僕は佐久間さんとの仲を切る気はない】
「……好きなのか、あいつが」
 沈黙後のその言葉に、僕は深く頷いた。そう、佐久間さんが好きだと、この男に何回言っただろうか。今更の質問に、早く理解して欲しいものだと、僕は呆れ顔を作る。
 だが、男はその言葉を、別の意味に捉えた。
「佐久間と、寝たのか…?」
 その発言に、僕は眉を寄せ、直ぐにそれを崩して鼻で笑った。あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて、怒る気にもなれない。
 だが…。
「どっちなんだ」
 僕の言葉に顔を歪めた男の表情を見た途端、噛合わない男との会話にではなく、男自身に嫌気がさした。
【そんな質問に答える気はない】
 下衆野郎。
 昔、友人が言っていた言葉が、ふと頭に浮かんだ。間違いなく、それは今のこの男に当てはまるだろう。僕と佐久間さんをそんな目で見たなど、不愉快極まりない。
 短絡的なその思考を一笑し、けれども苛立ちは膨れるばかりで、僕は無意識に男を本気で睨みつけていた。男もまた、僕を見据える。
 だが、その表情をふと崩し、男は目を閉じ溜息を吐いた。僕の腕を離し、その手で顔をひと擦りする。
「……食事の後は、空いていると言ったな」
 そう言い僕を見た男の目は、どこか虚ろ気なものだった。
「会って欲しい」
 突然のその変化に僕は少し戸惑い、ただ男を見た。
「佐久間と別れた後、『深海』に来てくれないか」
 何時になってもいい、待っている。
 男は僕が働く店の名を告げ、身を翻し、去って行った。

 一体男が何を考えているのか、僕には全くわからず、ただ人込みに消える男の背中を見送った。

2003/04/23
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