# 53
僕が店に着くと、佐久間さんは既に席に座っており、以前担当した事のある患者だという、恰幅の良いオーナーと楽しげに話しているところだった。
遅れると連絡を入れてくれた佐久間さんより遅いとは。僕はそこで漸く、筑波直純と思いの外長い時間を過ごした事を知る。時間を把握できなかった自分が悪いのだろうが、あの男のせいだと、苛立ちが募った。腹立たしい。
遅刻を詫びた僕に、「僕も今来たところだから」と佐久間さんは笑った。
「演奏会が長引いたのかな?」
楽器ケースを指さしながらのその問いに、僕は首を振る。
「なら、何かあったのかな。事故に遭遇したとか、時計を見間違えたとか…?」
違いますと首を振る僕に、「じゃあ、偶然知り合いに会ったとか、かな」と、佐久間さんは首を傾げた。
「当たり?」
僕が頷くと、満足げに彼は微笑んだ。だが、その目は最初から答えを知っていたかのような、悪戯な色を含んでいた。
もしかして、見ていたのだろうか。それとも、僕の行動が単純なのだろうか。
その疑問に、佐久間さんは気付いているのだろうに、ただ笑うだけだった。
遅れてしまった詫びのつもりというわけではないが、僕はその笑顔に、何故か話をしたくなり、佐久間さんに筑波直純と出会ったのだと教えた。本当は、あまり僕とあの男の関係を教えるのは良くはないのだろうが、それ以上に僕は佐久間さんとの話の方が好きなので、つい楽しい方向にもっていこうとしてしまう。
いや、話というよりも、この先の展開に僕は何かを期待しているのかもしれない。
案の定、佐久間さんは僕の話題に乗ってきた。僕から仕入れる情報で、あの男をからかうのだろう。精々、利用して欲しいものだ。
そして、僕をその懐に入れたと実感すればいい。
男への苛立ちを発散させるのと同時に、僕の中には別の感情が生まれてくる。自分に懐いていく僕を、佐久間さんはどう見ているのだろう。いや、それよりも。あの天川はどう見るだろうか。
想像すると楽しくなり、僕の筑波直純への怒りも収まってくる。
よく考えずとも、売り言葉に買い言葉のようなもので。本当に単純な思考でもって、あんな発言をしただけにしか過ぎないのかもしれないと、どうでもよくなってくる。
だから。
「ナイスだね、彼は」
僕が不快だと感じた男の発言に、佐久間さんがそう評価を下し笑っても、何故笑うんだと苛立つ事はなく、どうしてナイスなのかと、疑問に思うだけだった。
ナイスとは、馬鹿だという意味だろうか。確かにそうなのかもしれないが、全く不快に感じていなさそうな佐久間さんに、僕は流石この男だと妙な感心さえ持つ。男をからかえるのなら、自分がどう扱われようと良いという覚悟を持っているのだろう。
「彼も相当切羽詰っているようだね」
切羽が詰っているとは、一体何の事なのか。僕はその言葉に首を傾げながら、グラスに手を伸ばした。
若者向けのイタリアレストランは、さすがにこの時季の夜ともなれば、男女のカップルが多い。だが、そう高級な店でもないのではしゃいでいる若者グループもおり、男二人の僕達だが目立ってはいない。だが、少し居心地が悪かった。
多分、僕は、先程男に言われた言葉が気になるのだろう。馬鹿だと思うのに、何故か少し、動揺している。多分それは、自分に向けられた目が、あまりにも情けないものだったからだ。
本気であの男をからかっている佐久間さんだからこそ、男の事がわかるのだろうが、僕にはわからない。ただの知り合いに、あんな事を言われれば、一笑してもやはり少しは気まずさが残るとというもので。
もうどうでもいいのだが、言われた事を忘れは出来なくとも水に流せる程度のものだが、それでも意識はそちらに向いてしまう。
佐久間さんと寝たかなど、真剣な顔で聞かれて気分の良いものではなく、相手の思考を疑うというもので……。
「ま、保志くんは、腹立たしい事この上ないって感じかな」
その言葉に、当たり前だと僕は大きく頷きながら、またもや自分の感情が元に戻ってしまっている事に気付き、重い溜息を吐いた。考えなければいいのに考えてしまい、堂堂巡りのようになっている。…最悪だ。
「確かに、馬鹿な想像をしたものだね、筑波も。だが、あの筑波が、だよ。面白い」
本当に、と佐久間さんはパスタを口に放り込みながら笑う。
「それだけ、君のことが気になるんだろうね」
僕の事が? いや、気にしているのは佐久間さんのことだろう。
肩を竦め首を振った僕に、「言っただろう、前に」と佐久間さんは軽く頭を振る。
「彼に好かれるとは、大変だね、と。ホント、とても大変そうだ」
僕の読みは当たっていたね、とナプキンで口元を拭きながら、肩を竦めた佐久間さんの顔は、新しい玩具を発見したような子供のようだ。眼鏡の奥の目が光っているように見え、勘弁して欲しいと僕はまた溜息を落とす。
あの男をからかうのはいいが、僕をからかうのは止めて欲しい。今のようにご機嫌をとるだけにして欲しい。なぜなら、この男ばかり構っていられないからだ。僕は佐久間さんに勝てる自身など全くなく、これ以上遊ばれてしまっては、やりたい事が出来なくなる。
嘆く僕を見、佐久間さんは筑波直純の事でこの表情をしているのだと本気で思ったのか、思惑をわざと隠そうとしたのか、話を続ける。
「筑波はね、あんな商売をしているけれど、ホント、純情な奴なんだよね。可愛いぐらいに。恋愛に関してもそう。とことん惚れこむタイプだよ。そんな奴に惚れられるとは、大変だね、保志くん。どうするの」
何を言っているのだろうか、この男は。
「人の恋路に首を突っ込む趣味はないし、筑波だと、馬じゃなく、拳銃の弾でも飛んできそうだから、あまり言うのも何なんだけどね。君はわかっていそうにないから。鈍いのか鋭いのか、わからないね、保志くんは」
僕は、佐久間さんの言っていることがわからない。何を言いたいんだ。
意味ありげな発言は、僕の寄ってしまった眉に笑う佐久間さんの言葉で、解決を迎える。だが、僕にとっては解決とはいえない、新たな謎。
「筑波はね、間違いなく、君が好きだよ。もちろん、恋愛感情としてね」
あの男が、僕を?
僕は思わず更に眉間に皺を寄せ、そんな馬鹿げた発言をする佐久間さんを軽く睨んだ。あの男といい佐久間さんといい、何なのだろうか、一体。
「嘘じゃないよ。普通わかるものだよ、彼の様子を見ていたら。思い当たる所はない?」
確かに、気になるといわれたし、迷惑かと訊かれもした事を考えれば、好意はもたれているのかもしれない。そうでなければ、いくらこの佐久間さんが嫌いだからといっても、一般人の僕をあそこまで構う事はないのだろう。
僕の方も、その行動力や他者を支配している感の強い発言には、鬱陶しいと思う時もあるが、それでも縁を切りたいと思うほど嫌っているわけでもなく、むしろその逆だろう。この僕が関係を続けているのだから、普段意識はしないが、それなりに好意を抱いているのだろう。
だが、この思いが恋愛だとは、どうしても思えない。男が僕に向けるのも同じで、彼が誤解するという事もありえない。
「信じる信じないは、ま、君次第なんだけどね。何なら、ためしに聞いてみればいいさ」
それで、そうだと告白されたら、君はどうするんだろうね。
あくまでも他人事でしかない佐久間さんは、そんな言葉でその話題を終わらせた。
だけど、僕にはそう簡単にいくものでもなく、筑波直純と佐久間さんの言葉が頭を駆けまわる。
もしかしたら、僕はこの二人にそれぞれいいようにからかわれているのかもしれない。少なくとも、佐久間さんの発言はそんな気がする。
そうなれば面白いという彼の思いが、はっきりと見える気がする。佐久間さんが気にいっている天川と筑波直純が、僕に対して反する感情を持っている。それを利用して楽しまないような彼ではないだろう。
だが、そこまでするメリットはあるのだろうか。佐久間さんが、僕とあの男の関係を深めさせたいなど…。
筑波直純に言われ続けているからだろうか、佐久間さんが僕に対して何らかの事を仕掛けてくるだろうというのを、自分が酷く意識している事に気付き、僕は溜息を吐いて頭を振った。
わからない事ばかりだ。最近、他人の言葉に左右されそうになる事が多々ある気がする。僕を支配しようとしている気がする。
僕は、僕の周りを流れる水の速さが何だか以前と変わってしまった気がして、少し怖くなった。知らない場所で泳げるほど、僕は器用ではないだろう。
この流れに身を乗せていて、本当にいいのだろうか。
僕は変化し始めているのかもしれない。
その唐突な思い付きに、けれども、今までの自分が消えそうな不安が突如胸を襲った。
漠然としたこれは、一体何なのだろうか。
僕は知らない。
――ずっと、今のままで、このままでいられたらいいと、よく思うんだ。子供だからという逃げ場所を、失いたくないよな…。多分、今が一番、自由なんだ、人生の中で。
16歳の少年はそう言いながら、ただ空を流れる雲を見つめていた。
――でも、そんな事、出来ないんだよな。…だったらさ、それを必要な変化だと受け入れられるようになりたいよな。昔はこうだったなんて、女々しく言わずにさ、今はこうだからこうしようって、かっこよく答えを見つけられたらいいよな。
そう出来たら、大人でも自由に生きられるんだろうか。
少年はぽつりと、そう言った。
その言葉を思い出した途端、胸を襲った不安は、やって来た時と同じように、一瞬にして消え去った。
変わる事を嫌だと思う。恐怖もある。だが、それが生きているが故の事ならば、きっとそんな思いは無意味なのだろう。多かれ少なかれ人は変化し続けているのだから。
そう、僕は歳をとってしまい、大人になったけれど、自分は自由だと信じていたい。
――俺があいつを脅えさせているんだ。わかってるんだ、そんなこと。でも、俺はあいつがいなきゃ、駄目なんだ。
我が儘だよな。ホント、嫌になるくらい。
そう言って友人は自分を責めた。
――もしかしたらさ、いつか後悔する時がくるかもしれない。でも、今求めない方が、多分、もっと後悔すると思うんだ。過去でも、未来でもなく、俺は、今を生きているんだ。馬鹿な屁理屈でも何でも、俺はそれを信じるしかないんだ。
あの時。
大人になりかけていたが、まだ子供だったあの少年は、全てをわかっていたように思う。
あの友人が一番、真実を知っていたのだろう。
そう。僕もそうなのだ。
僕はただ、僕を持ち続ける。その事が、一番大切なのだ。
だから。
だから、僕は。
もう少し、僕という人間を、知るべきなのかもしれない。
2003/04/26