# 54
「今夜は寒いんだね。早く帰ろう、凍りそうだよ」
それにしても、その頭は特に寒そうだ。耳が赤いよ、と店を出た佐久間さんは、肩を竦めながらそう言って笑った。そして、先程返してくれたマフラーを僕の手から取り、僕の首に巻く。
「ホント、寒くないの?」
僕が頷くと、「歳の違いだろうかな。ま、風邪をぶり返さないように気をつけるんだよ」と、巻きつけて余ったマフラーを縛り、僕の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、またね。保志くん」
その手を軽く振り、佐久間さんは僕が応えたのを確認し、踵を返した。
僕は暫くその後ろ姿を見送り、楽器ケースを持ち直し、その場を離れた。
まだ多くの人が歩く歩道で、僕はゆっくりと足を進めながら、この後どうしようかと考える。擦れ違う人との間に、小さな風が生まれ、動く空気が冷たさを増し僕の肌を刺した。
筑波直純が別れ際言った言葉を思い出す。あの時は、苛立っていたので、行く気にはなれなかった。
だが、今僕は迷っている。
今更彼とどれだけ話しても、佐久間さんに対しての思いの違いは交わりはしないだろうし、あのしつこいとさえ言える理屈を聞く気にもなれない。だが、彼が僕を呼んだ理由はそれだけだとわかっていても、何となく、その場に行きたい気がする。
そう、これはちょっとした好奇心なのかもしれない。
男の言葉に耳を貸す気はないが、男そのものには、興味がある。いや、筑波直純と言うよりも、佐久間さんに対してのものだろう。彼が何を思ってあんな発言をしたのか、何を考え何を望んでいるのか、僕はそれを見たい気がする。
友人は、佐久間さんの事を良くわかっていた。僕の今の知識は、彼から得たものばかりだ。だから。
もっと自分の目で、佐久間秀という人間を知りたいと、僕は思い始めている。
僕が店に着いたのは、まだ今日という日が終わるまでには充分時間がある時刻だった。店の閉店までならば、映画を一本見終えるくらいの時間だ。
僕はそのまま店に入ろうと階段を降りかけ、ふと足を止め一歩下がって歩道に戻り、天を仰いだ。夜空には厚い雲が掛かっており、見るものなど特にはない。けれど僕はそれに満足し、店に入る事を止めて、歩道に引き返す。
店の前から少し離れた場所にある、ガードレールに僕は腰を降ろした。コートが汚れるかもしれないが、ここが一番、明かりが目に入らない。
藤代は明日だといっていたが、雪は今夜からだと予報がされていた。かまいたちが起こりそうなほど冷え切った鋭い空気に雪が舞えば、きっと気持ちがいいだろう。僕は少し興奮しながら、空からの贈り物を待つ。
僕は、暑いのなら、体を流れる血も沸騰するのではないかと思うくらいの暑さが好きで、寒いのなら、それが凍ってしまうくらいの寒さを好んでいる。それを友人は極端な奴だと笑ったが、わかりやすくていいなと納得もしていた。
子供だと自分でも思うが、雪の日には外に出たくなる。雪に触れて遊びたくはならないが、その冷たい空気を味わいたくなるのだ。だが、日中のそれは、太陽の光で思うほど味わう事は出来ない。だから、夜に降る雪は、無性に体感したくなる。
本当に子供のように胸を弾ませながら、僕はその訪れを待った。店の中では、男が僕を待っているかもしれないが、時間を指定した約束ではなく、店が終われば男は出てくるのでそれを違える事にもならず、問題はないだろう。僕への用は、どうせ佐久間さんの事で、そう急ぐ事でもないはずだ。
そして。
自分が生み出す白い息を眺めていた僕の目に、ひらりと白い粉が飛び込んできた。空を見上げると、闇夜の中で、白い雪が舞い始めていた。それはまだちらほらと言った程度だが、歩道を行きかう人々がそれに気付き、僕と同じように天を仰ぐ。はしゃぎ始める。
闇夜と雪のコントラストは、僕を充分満足させるほど、綺麗なものだった。
心までもが、凛と研ぎすまされる。
人通りが少なくなった頃、同じよう空から降る雪も、その姿を隠し始めた。ひと時、前が見えないほどの本降りになったお陰で、歩道の隅には少し積もっていたが、明日の朝には解けてしまうのだろう。
長い間その場にいた僕の体はすっかり冷えてしまい、投げ出していた足を曲げるのに、少し努力が要った。手もはじめはジンジンと痛んでいたが、もう感覚が麻痺しており何も感じない。
その手でコートのポケットに入れていた携帯を取り出し時刻を確認すると、夢中になって気付かなかったが、かなりの時間を僕はここで過ごしていた。とっくに日付けが変わっており、店の閉店時間も過ぎている。
あの男はもう帰ったかもしれない、と僕は慌てる事はせず、ゆっくりとその姿勢のまま店に顔を向けた。他の店も閉じたものが多く、静かな暗い通りが、ただそこにあった。
その空間の中に、男がふと現れる。
筑波直純はゆっくりとした歩みで階段を上ってきた。そして、外の寒さに驚いたのか、空を眺め、視線を落とし、白い息を吐き出す。それは寒さのせいだけではなく、手には煙草が持たれていた。
その煙草をもう一度吸い、指から落とし、煙を吐きながら靴でそれをもみ消す。
そして。
はっと何かに弾かれるように、筑波直純は僕を振り返った。目を見開き、次の瞬間には眉を寄せる。
ゆっくりとした足取りでこちらに向かう男を、僕は動かずにじっと見つめた。
「…何をしているんだ」
怒った風でも呆れた風でもなく、けれどもどこか苛立たしげに、男はそう僕に訊いた。
「お前、…根性が悪いな」
こんなところで待ち伏せか。男は顔を歪めて、自嘲気味に笑う。
「保志」
真っ直ぐと見つめてくる目は、とても深い感情がそこにあるように思えた。
先程から見ていた男の姿が、僕の頭で繰り返し…。
何故だろう。
そんな気分であったわけでも、今までにこんな感情を持ったわけでもないのに。
まして、佐久間さんの言葉を信じたわけでも、男の態度がそんな風だと思ったわけでもないのに。
僕は、男のその目に、欲情した。
「これは、了解か拒絶か?」
わけのわからない事をいう男に、けれども僕は訊き返す余裕もなく、ただこの生まれた熱は何なのかと、答えはこの目の中に映るのだろうかと、男から視線をそらす事が出来ない。
そんな僕に手を伸ばし、筑波直純は僕の肩や頭に乗った雪をはらった。
「お前は、わかり難い。俺にはわからない。…そろそろ答えをくれないか?」
答えと言うのなら、僕はそれ以前に何か問題をこの男から与えられていたのだろうか。
だが、それを思い出すために、過去をひっくり返し記憶を漁る余裕は、今の僕にはない。
今、僕にあるのは、この現実だけだ。目の前に、筑波直純が居る。
僕に積もった雪をはらい、少し赤くなった指先。
少し骨張った、太い、けれどもすらりとした綺麗な線を描く目の前の手を、僕は冷え切った自らの手で捕らえた。
冷たい。
なのに、熱が生まれる。
この男を抱きたい。
その理由は、この熱だけで充分だった。
2003/04/26