# 55

 ソファに座った男の前に立ち、僕はゆっくりと手を伸ばした。
 逃げるのならば逃げればいい。だが、触らせてくれるのなら動かないでくれ。そう野良猫に手を伸ばすように、ゆっくりと僕は男に触れる。
 男は逃げる事はなく、ただ、じっと僕を見ていた。
 その目が何を表すのか、僕にはわからなかった。何の色も見えないものだった。いや、そこに何かを見る事が出来る程の余裕が、今の僕にはないということなのかもしれない。だが、そんなものはどちらでもいい事だ。
 僕はその両目に右手を翳し、男の視界を塞いだ。
 左手の指先で、頬に触れる。
 触れ合うのはほんの少しの場所だけなのに、そこから男の熱が流れ込んでくる錯覚に陥る。それくらいに、熱かった。
 いや、僕の手が冷たかった。
 少し崩れた男の髪を解かすように手で梳き上げ、僕はその生え際に唇を落とした。
 汗と男の匂いが微かにした。
 だが、それを充分に味わうほどの余裕はなく、けれども僕は急かされる心に反して、ゆっくりと唇を落としていく。額に頬に、耳に顎に。順番に男の線をなぞっていく。
 顔中にキスをしながらゆっくりと右手を退けると、男は瞼を閉じていた。そこにもキスを落とし、薄く刻まれた眉間の皺にも落とす。
 男の額に僕の額を合わせると、男はゆっくりと目を開けた。
 間近で見つめる男の目に、僕の姿は映っていなかった。光も何もない暗闇である、黒い瞳。
 それは僕の影になっているからということで、視界の隅に微かに窓の外からの明かりを受ける僕の目はそうではないのだろう。男には僕の目に何が映っているのか、見えるはずだ。
 そう思うと、少し胸が高鳴った。
 自分だけが見られている気がして、今度は僕が目を閉じた。
 男が動き、僕の頬に手を添える。
 次の瞬間には、僕の口は男の息で満たされた。

 ボタンを外しシャツの中に手を入れ、僕は向き合う男の肌をその手で味わう。トクンと響く心音が、掌を刺激する。そして、それ以上に体の熱が僕を煽る。
 男は小さく喉を鳴らし、シャツから腕を抜きとると、それを後ろに放り投げた。現れた体に、僕は両手を滑らせ、腕を絡めた。だが、自身を纏う布に気付き、僕は直ぐに体を離す。
 この熱を、もっと味わいたい。それには、これは邪魔だ。
 セーターを脱ぎ、シャツの釦をいくつか外した所で、男がその僕の手に触れた。
 そして、僕をじっと見つめ、筑波直純は言った。

「…いいのか、本当に?」

 それは、今なら戻れるということなのだろうか。この男はそうだというのだろうか。
 僕は言われた言葉に軽く眉を寄せる。
 僕はもう、この衝動を止める事は出来ない。男の熱に触れる以外に、それを消し去る方法を知らない。なのに、男は問う。
 良いも悪いも、今の僕にはこれしかないのを、何故わからないのだろう。
 この想いを伝える術はひとつしか思いつかず、僕はゆっくり男に顔を近づけ、それを実行した。重ねた唇は、喋れない僕の言葉を、直接男に伝えてくれる。
 直ぐに滑り込んできた男の舌は、生暖かい別の生き物のように、僕の口の中で動き回った。攻撃ともいえるそれに、僕はただ押されるままに逃げるのが精一杯で、息さえもまともに出来ない。だが、それでも、去っていくその温もりを追いかけるくらいに、僕はその行為にのめり込んだ。
 途中だったシャツの釦を丁寧に外され、僕が自ら腕を引き抜くと、先程と同じように、男はそれを後ろへ放った。唇を離し、アンダーシャツも脱がされる。だが、直にまた、それは重なる。
 夢中で交わしたキスは、初めての行為に関わらず、僕を安心させた。
 生まれる熱は、熱ければ熱いほどいい。
 先刻まで、僕は凍るほどの寒さを求めていたのに、今は熱の中にいる。それが、快感だった。

 だが、直ぐに、もっと熱い熱を、僕は体感する。


 ドクドクと耳の側の血管の中で、血が勢いよく流れているのを、僕は聞き続けていた。だからだろう、閉ざした瞼に浮かぶのは、真っ赤な色だけだ。
 それは、あの時見た、僕に降り注いだ血の色に酷く似ている気がするのと同時に、全くの別もののように思える。そう、あの時は与えられたものだったが、この紅は、僕が生み出したものだ。
 僕は今、尽きる事のない欲望に、狂っている。

 男が触れる箇所から、灼ける様に熱い熱が広がり、僕の身体を燃やしていく。
 その焔は、消えるどころか、勢いを増すばかり。
 耐え切れないほどの熱。だが、逃げ出すのではなく、この狂気の中で永遠に身を置いていたいと願ってしまう。全ての理性を奪われ、ただ、僕は熱に翻弄される。
 男の体を、貪る。
 逞しい身体全てに唇を這わせ、まともに目を開けていることが出来ない代わりに、僕はそうして男の体を覚える。
 僕の体を這い回る大きな手は、時々それを笑うかのように、僕の行動を阻止する。指先で唇を撫でられたその腹いせに、何度僕は男の固い指に歯を立てただろう。そして、男は何度、僕の体を抱き上げただろうか。
 膝に落としたキスに喉を鳴らし、そのまま脚に唇を滑らそうとした僕を、男は引き上げた。抗議の変わりに軽く睨むと、両手で頬を挟まれ、唇を重ねられる。
「好きだ」
 密着した身体は、互いの熱を相手に教えていた。未だ存在を誇示する性器は、何度も放った熱で濡れており、淫靡な音を立てる。それは、荒い息をつく中、体を流れる血流ばかりが耳につく中でも、背筋を震わせるほどに闇に響いた。
 その時、男が言った言葉を、僕ははっきりと耳にした。低く掠れた声だったが、僕の身体に直接響いた。
「好きだ、保志」
 欲情を孕んだ男の濡れた瞳は、僕を絡め取るほどに艶かしかった。
 こうした行為に慣れてはいなくとも、何も知らない小娘のように初心だというわけではなく、この場限りのただの言葉なのだと、我を忘れ熱に浮かされる僕でもそれは理解しているというもの。
 だが、この一瞬は、それでも真実なのだと強く思った。錯覚しているわけではない。本当にこの一瞬だけは、それは何よりも信じられるものなのだと、僕は初めて知った。
 甘い囁きは、重ねられた唇よりも、身体の熱よりも、確かなものだった。
 今だけの、真実。

 それは、頂点を極めて放つ熱よりも、快感だった。

2003/04/26
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