# 56

 何かが振動している音で、僕は覚醒に導かれた。ブーンという耳障りな音は、数度で止まる。だが、だからといって、一度目覚めた僕が、再び闇に落ちるということはない。
 耳に届く声に、僕はゆっくりと目をあけた。
 男が僕に背を向け、ベッドから立ち上がるのが見えた。小さくスプリングが軋み、僕の体も僅かにその振動を感知する。
 上半身が裸の後ろ姿は、窓からの光で綺麗なコントラストを作り上げており、凛と研ぎ澄まされたものだった。その雰囲気に僕は少し飲まれて身動きする事が出来ず、僕がまだ眠っていると思っているのだろう、静かに部屋を出て行く筑波直純をただ見送る。
 閉じられたドアを暫し眺め、数回の深呼吸をした後、僕はベッドの上で体を起こした。
 少し、身体がだるい。だが、その他はいつもと変わらない。いつも通りの睡眠はとっているようだと時計を探すと、ベッド脇にあったそれは、今は8時半を少し回った時刻であることを示していた。
 小さく息を吐き出すと、無性にニコチンが欲しくなった。部屋を見回すが、煙草は置かれていない。僕の服もない。
 仕方がないとベッドを降り、初めて何も体につけていないことに気付いた。自分で思うほど、頭は働いていないようだ。
 自身の体を見下ろすと同時に、肌寒さを感じ、腕を擦る。エアコンがかかっているようだが、さすがにこのままでは部屋の中とはいえ風邪をひくかもしれない。昨夜再発させないようにと言っていた佐久間さんの言葉を思い出し、僕は軽く笑いながら扉を開けた。
 先にシャワーを浴びようかと思ったが、それよりも煙草が恋しく、僕は服が放ってあるだろうリビングへと向かった。中に入ると、筑波直純はまだ電話をしていた。僕を見とめ、僅かに顔を顰める。
 聞かれて困るものなのかもしれないと思ったが、ソファに置かれた僕の持ち物一式をとるくらいは構わないだろうと、遠慮をすることなく僕は足を踏み入れた。そんな僕をやはり不都合に思ったのか、それとも用が終わったのか、男は直ぐに通話を切った。
「…浴室はここを出た右のドアだ」
 電話をテーブルに置き、僕を見ながら、男は袖を通しただけだったワイシャツの釦に手をかける。第三釦から止めるのは癖なのだろうか。
「シャワーを浴びて来い」
 風邪をひくぞという言葉に頷きながら、僕は男の前のソファに置かれた服をあさり、シガレットケースを取り出す。
 先日、久し振りに部屋を片付けて見つけたこの煙草入れは、何年か前にマスターから貰ったものだ。黒い革で手触りはいいのだが、毎回煙草を入れ替えるのが面倒で、いつの間にか引き出しの中に仕舞いこんでいた。多分、また直ぐに飽きてしまい使わなくなるのだろう。
 ライターはコートだっただろうかと考えながら取り出した煙草を咥え、僕は部屋を見回しそれを探す。
「ほら」
 ハンガーにかけられたコートを見つけたが、声をかけられ男を振り向くと、ライターの火を翳してくれていた。それに顔を近づけ火を貰い、僕は肺に煙を送り込んだ。煙草をあまり吸わない男が何故ライターを持っているのかというのは、愚問なのだろう。
「いつまでそんな格好でいる気だ」
 吐き出す紫煙を目で追う僕に、男は呆れた声を出した。その言葉に、僕は軽く眉をあげる。
 別に露出狂ではないので、好き好んで体を晒しているわけではないが、恥ずかしいと隠すほどのものでもない。体を合わせたのだから今更というものもあるが、何よりも男同士で照れる方が不気味だろう。確かに嗜みがないと言えるが、気にするのもどうかと思う。
「それとも、誘っているのか?」
 そんな軽口に肩を竦め、僕は煙草を吸いながら部屋を出た。その僕の背中に、男の深い溜息がかかった気がしたが、確認する気はなく、そのまま教えられた風呂場へと向かう。
 朝から男の裸など目にしたくなかったのだろうかと思いついたのは、脱衣所の洗面台の鏡で自分の姿を見てからだ。肌に散る赤い模様に指で触れ、僕は軽く笑う。
 生々しいこれに、男は昨夜の事を後悔したのだろうか。
 昨夜、佐久間さんが言っていた、筑波直純は純情だと言う言葉を思い出す。彼に可愛いなどと言われていたと知れば、男は間違いなく怒るのだろう。だが、あながち、それは嘘でもなさそうだ。
 先程、誘っているのかと僕をからかった男が、照れるように僅かに目元を赤く染めていた事に気付く。昨夜の痴態を恥じたのか、ただ思い出して照れたのか。
 聞こえた溜息は、僕が部屋から去ることへの安堵だったのかもしれない。

 男が入ってそう時間が経っていないのだろう、浴室はまだ暖かく、少し白く曇っていた。
 零れた煙草の灰が、湯気のたつお湯とともに排水溝へと流れていくのを見ながら、僕は背中からシャワーを浴びた。
 誰かと肌を重ねるという事は、思っていたよりも大したことではないのだと、僕は背中に降り注ぐ熱に痛みを覚えながら、漠然とそんな事を考えた。相手の男がどうだったかなどどうでもいい事で、僕にすればあの行為は、後悔もなければ、特別な感情もない。
 少し拍子抜けするほど、何もないものだった。
 昨夜の熱を嘘だとは思わないが、消え去った事を不思議だとも思わない。当然の事と受け入れている。あの言葉もそう。甘い囁きは、今はもう、何の効力もない。
 そんな自分がおかしく、そしてまた妙に納得している。
 他人の熱は、冷め易い。僕の中に、留まる事はない。
 ただ、そう言うことなのだ。
 消えた熱に、未練など無い。



 濡れた髪から、水滴を拭ったばかりの頬に、雫が伝い落ちる。
 顎の先まで流れたそれは、そこでぽつりと、重力に引かれ、その身を落とす。洗面台ではじけ飛んだ雫は、排水溝に流れることはない小さな飛沫となって、タイルに張り付く。そのうち蒸発するのだろう。
 僕はそれから視線を上げ、目の前の鏡を見た。
 熱いシャワーを浴びたせいで火照った顔は、耳まで赤い。だが、身体に落ちる幾つかの斑点は、それでもその存在を主張している。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 ふと一つ、シャワーを浴び終わり浴室から出た時に唐突に思い出した事が、僕の頭を占めていく。
 男は昨夜、僕に言った。答えをくれと。確かに、そう言った。
 それは、その前にされたあの馬鹿げた質問に対するものではないだろう。ならば、何をあんなに真剣に、僕に問うていたのだろうか。
 ただ、単純に、何なのかと訊けばいいだけのことなのかもしれない。
 けれど…。
 僕は、あの真っ直ぐと向かってくる強い瞳を思い出すだけで、何故だか恐怖が沸き起こり、どう言う意味なのかなどとは訊けそうにない。

 あの目は、どこか、友人を思い出させる。

 不意に気付いたその事実に、僕は大きな溜息を吐いた。
 曇った鏡が、僕の顔を醜く歪ませた。

2003/05/07
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