# 57

「前から訊いてみたかったんだがな」
 そう前置きをして、筑波直純は言った。
 風呂から出てきた僕は用意されていた簡単な朝食を男と摂り、帰るタイミングを逃し、促されるままソファに腰を降ろした。食後の一服というわけではなく、単なる手持ち無沙汰で煙草に火をつける僕に、男は「吸いすぎるなよ」と軽く呆れた。
 確かに、煙草は職業柄あまり好ましいとは言えない。社会的にも喫煙者の肩身は狭くなる一方で、その理由も充分に理解しているつもりだ。だが、それでも手放せないのだから仕方がない。
 これでもバーテンとサックス吹きだとの自覚はあるので、匂いの薄い軽い煙草を吸うように心がけている。今のところ、客やマスターから注意を受けたことはないので大丈夫だと思ってはいるが、世間の風潮を見れば、それも時間の問題なのかもしれない。
 男の言葉に軽く笑い、煙を燻らしながらそんな事を考える僕に、筑波直純は以前から訊きたかったのだと質問をしてきた。
「お前は俺の事を、何て呼んでいるんだ?」
 …一体、それはどう言う意味なのか。
 二杯目のコーヒーを飲み終えたのか、カップをテーブルに置きながらそう言い、僅かに首を傾げる男に、僕は眉を寄せて少し大袈裟に首を傾けて疑問を表した。そんな僕を、男が笑う。
「お前は頭の中で、俺の事を何て呼んでいるのか、知りたいだけだ。別に、馬鹿でもオヤジでも怒らない、教えろよ。
 筑波か、筑波さん? それとも、本当にオヤジだとかヤクザとか?」
 何故か楽しそうに笑いながら言う男の言葉の意味を理解し、僕は軽く頷き、そして笑った。そう言えば、僕はこの男の事を何故かフルネームで呼んでいると、今更ながらに気付く。
「教えたくはない呼び方なのか?」
 僕の笑いをどうとったのか、男は軽く眉間に皺を作り、肩を竦めた。おどけたその姿は、似合わないが、悪くもない。
「時々だが、短い言葉とかだと、お前、口を動かすだろう」
 唐突に話題を変えた男に僕はまた疑問を表しながらも、確かにそんな時もあるだろうと、その言葉に頷く。僕は腕を伸ばし、テーブルに置かれた赤いガラスの灰皿に、指先で煙草を叩き灰を落とす。
「それがわかるというか、その口から言葉を読み取れた時、本当に単純な言葉でしかないんだが…、お前の声が聞こえる気がする」
 自分の言葉に照れたように笑い、けれども男は言葉を続けた。
「実際の音じゃない。だが、お前の声には変わりないだろう?
 だから、お前が俺を何て呼んでいるのか、知りたい。それがわかれば、俺はお前の声を聞こえる」
 笑いを含む男の声は、けれども真摯なもののようにも思え、僕は思わず溜息の変わりに煙を吐く。パッと吐き出した煙はドーナツ型のまま、天井へと昇っていく。それをゆっくりと目で追い、僕は男の視線を受ける事を避ける。
 単なる想像にリアリティを加えるために訊きたいと、そう言うことなのだろう。
 もしかしたら…などという、そんな曖昧なものに今は目を向けたくはなく、僕は男の言葉をそう受け取る。だが、それでも。それでも僕にとっては、小さな衝撃を与えるものだった。
 声が聞こえるなど、面白い表現をするものだ。全く僕の声を知らない男だからこそ、そんな発想が出来るのだろう。僕は僕の声を知っているので、自分ではそんなこと、思いつかない。
 そう、思いつきもしなかった。
 声をなくした僕は、自分から人に伝える手段ばかりではなく、人が僕という人間を知る術をなくしていることを、それこそ今更ながらに思い知る。声という唯一つのものだけではなく、沢山の事を、僕は主張できていないのだと。
 だが、それを悲しいとは思わない。
 逆に、それでも僕と関係を築いていてくれる人達の大きさに気付く事が出来、ありがたく思う。素直に嬉しい。きっと僕ならば、心の内が見え難い相手を受け入れるなど、出来はしないだろう。
 ただ喋れないだけだと、僕は少し軽視しすぎていたのかもしれない。いや、意味なく強気でありすぎたのだ。僕は自分が与える不快感や感情を気にせず、ただ自分に向かってくるものばかりを見ていた。それを選別していい気になっていた。
 他人より欠けた自分を、どこか特別視していたのかもしれない。
 僕は小さく自身を嘲笑い、そして、男を見て別の笑みを浮かべた。この男は、僕を変化させる天才なのかもしれない。それがいい事なのかどうなのか、今はまだわからないが、面白いと思う。
 人に気付かされてみる自分は、情けない馬鹿な人間ではあるが、嫌いではないと思う。僕は、僕をもっと、これから先も僕という人間を作り続けていける気がする。
 まるで青臭い餓鬼の様だと、その思いに僕は軽く笑い、灰皿で短くなった煙草をもみ消した。
 僕の笑みの真実をわかったわけではないだろうに、男は僕が満足する笑みを返してくれる。

【筑波直純】
「ん?」
【あなたの事は、フルネームで呼んでいる】
「何故?」
 僕の手元を覗き込んでいた男は、少し間抜けな声を出し、それに合った表情をした。
【名前を教えもらった時の印象が強かったからかもしれません】
 これといった答えはないと肩を竦めた僕の頭を、男は片手で抑え、髪をかき回した。そう、この歳になれば特別な場ではない限り、あまり初対面でフルネームを名乗りあう事はないだろう。まずは名字だけだ。
 第一、借金取りとただの雇われ従業員があんな風に名乗りあうのも、相当珍しいものだっただろう。あの時、僕の行動にマスターは慌てていたが、あの場にいた男達も驚いていたのかもしれない。
「なら、俺の名前はあの時一度で覚えたんだな」
 岡山が忘れられていたと前に嘆いていた。そう笑いながら、男は僕の頭を撫でる。なんだか、子供になった気が少しして、恥ずかしくなった。手を退かせようとすると、軽く頭を叩かれる。
「それにしても、ホントにフルネームで呼んでいるのか?」
 頷く僕に、おかしな奴だと呆れる男は、失礼な奴だ。嘘つきだ。何と呼ばれていても言いといったのはつい先程の事なのに。
【だったら、何て呼べばいい?】
「いや、別にいいんだ、それで。ただ、呼ばれ慣れていないからな…」
 想像し難いと言うのだろうか。軟弱な頭だ。
【でしたら、筑波さん、そう呼びますよ】
「そうか? …なら、呼んでくれ」
 男はそう言って、真剣な目をして僕を見た。そして、頭に置いていた手を滑らせ、僕の口元に軽く指先で触れた。
 筑波さん、と僕は呆れながら、唇を動かす。
「もう一度」
 つくばさん。
 男の顔から一瞬笑みが消え、そして、その次の瞬間には子供のように笑った。
「よし、覚えた」
 本当に、子供のように笑う。けれど、この男は単純なそれではない。

 ヤクザなのだ。この男は。
 仕事中は、こんな笑みを見せないだろう。無口というわけではないが、そう愛想がよさそうでもない男が僕に見せるこの笑顔の意味は、何処にあるのだろうか。
 そう思うと、一瞬向けられた真剣な目に、僕の胸がドキリと高鳴る。震えが起こりそうになる。

 筑波直純は、やはり不思議な男だ。
 他者を威圧する雰囲気を身に纏い、それでも人を惹きつける魅力を持つ。なのに、子供のような表情もする。
 くるくると意図的に変えているのではない。それには、彼の心がきちんと存在する。
 だが、だからこそ、厄介なものなのかもしれない。

 純粋だといった佐久間さんの言葉が、重みを持って、僕の心に沈みこんだ。

2003/05/07
Novel  Title  Back  Next