# 58
悪くはない人。
ヤクザだが、いい人だ。
はじめはそんな印象を持っていた。
いや、今も持っている。そう、それは間違ってはいないのだろう。
だが、それだけではない。
それなのに。それを僕は、直ぐに忘れてしまいそうになる。いい人だと表現するだけの、単純な、簡単な男との関係が心地良く、それだけを望む僕は、都合のいい様に筑波直純という人間を見ようとする。
時折向けられる、真っ直ぐな視線。
その瞳に、僕はそうではないのだと思い知らされる。それが、裏の社会で生きている男だというだけのものではない事に、僕は気付き始めているのかもしれない。知りたくないと目を逸らしても、知らないでいられるほど、甘くはないのかもしれない。
この世の中も、筑波直純という男も。
「送っていこう」
仕事もあるので帰りますと席を立った僕に、筑波直純はそう言った。それに首を振った僕に、すっと腕が伸ばされる。
「送りたいんだ。いいだろう?」
顔へと近付いてくる男の手に見入ってしまったのは、一瞬。
僕はそれを、後ろへ一歩足を引くことにより避けた。
男の眉間に皺が刻まれるのを見ながら、僕はもう一度首を振り、頭を下げて部屋を出る。腕を通したコートの釦をとめながら廊下を進む僕の名が呼ばれた。だが、僕は振り返らず、玄関まで一気に歩く。
昨夜置いたままの形で、楽器ケースがそこに座っていた。靴を履き、それを手にし、ドアノブに手をかけたところで男が追いつき、僕の名をもう一度読んだ。
「保志」
その声に振り返り、僕は僅かに首を傾げる。何ですかと、軽く笑いながら。
そんな僕とは違い、男は少し硬い表情をしていた。
「…どうした?」
怒っているのかと言葉にせずに問うてくる男に、僕は口の端をあげて笑い、大きくゆっくりと首を横に一振りする。そして。
肩を竦め、軽く頭を下げ、今度こそ僕は出て行こうと、ノブを回し少し重い扉を開ける。
だが、それは直ぐに僕の後ろでバタンと大きな音を立てて閉まった。
突然、強い力で肩を引かれ、僕は勢い良く振り返らされた。その反動でドアが閉まったのだと気付いた時には、もう僕の手は冷たいドアノブからは離れていた。
先程とは違い、肩にかかった男の手を避ける術は僕には与えられていなかった。振り向いた僕の顔に、男の顔が近付いて来るのを、僕はただじっと見つめる事しか出来なかった。
重なった唇は、ただのそれでしかなかった。嫌ではないが、特に感想のないもの。
熱がないこんな行為は、味気ないものだろうと思っていたが、そういった感情すら浮かばないものだった。ただ、唇を合わせている。あるのはその事実だけだ。
間近にある男の顔を、僕は僅かに見上げる格好で見つめた。精悍な顔なのでわかりにくいが、目を伏せると睫がとても長いのだとわかる。
その目が不意に薄く開き、僕を見た。
「…お前なぁ……」
軽く啄んでいた唇が離れ、小さく呟きを落とす。唇に軽い息がかかり、僕が顎を引くと、今度は少し上から溜息を落とされた。
「目を瞑れよ」
…何?
何のことだと反射的に首を傾けた僕に、男は整えていない髪をかきあげながら言った。
「キスの仕方を知らない、何て言うなよ」
昨夜散々したのだ、そんな訳がないのはこの男も知っているだろうに。何を言っているのだか。
男の馬鹿な発言に肩を竦めた僕の額を、男はパシリと軽く叩いた。
「目を瞑るのは、礼儀だろう。人の顔を眺めているなよ、悪趣味だ」
そう言いながら、僕の頭を軽く押し上を向かせると、再び男は僕にキスをした。
男の大きな手が動き、僕の両目を塞ぐ。まるで、昨夜僕がしたように。
目を瞑るのが本当に礼儀なのかどうなのか怪しいが、僕は観念し、目を閉ざした。唇に受ける熱は、温かかった。
そう。確かに、温かかった。
けれど…。
送っていくとの申し出を断り、寒い冬の街を歩く。
昨夜歩いた時とは違い、今はもう、身体の何処にも熱はなかった。男の温もりも直ぐに消え、僕は冷たい空気を胸に吸い込む。
そして、漸く気付く。冷えた頭で、自分が犯した過ちに気付く。
僕は、してはならない事を、してしまったのかもしれない。
無意識に、指先で触れた唇は、冬の風で乾いていた。
先程受けた熱の名残など無い。だが…。
キスをした。あの男と。
僕は今になって、少し、動揺している。
2003/05/07