# 59

 僕の髪型を見たマスターは、いつもの紳士的な笑みではなく、子供が笑うように爆笑した。大きな声をあげる事はなかったが、クツクツと肩を揺らせ、目尻には涙まで浮かべた。
 それもそのはずで、店に来た時の僕の髪は、ボサボサだった。多少は強い北風のせいもあったのだろうが、短いからといっても、柔らかい髪質なので何もしなければ勝手に寝てしまい、まるでブラッシングされていない犬の毛のように乱れていた。
 元々自分の容姿に気を配る性格ではなく、男との事を考えとても疲れていたので、何でもいいとそのまま出勤してきたのだが、やはりそれでは不味かったらしい。
 マスターは、一番乗りで出勤していた従業員の少年に、僕の髪をどうにかしてやってくれと頼んだ。
「保志くん。悪いがそれだと、安物のカツラをつけているみたいだ」
 なかなか上手い表現をするマスターに、僕は切る前の癖で髪を後ろに梳きながら、軽く笑った。だが、その仕草が更に髪型を悪くしているのだろう。ふわりとした髪が指を滑り、直ぐに前へと流れる。この季節では、何度もすれば静電気が起こりそうだ。
 雇い主の命令は絶対だという考えなど僕にはなく、だが、断るほどの拘りをこの髪型に持っている訳でもないので、マスターと同じように遠慮なく笑う少年に、僕は整髪料を手渡されて大人しく髪を整えた。この匂いと手触りがどうも好きになれないのだが、そうも言っていられないのが現状だ。
 だが、指を使い、昨日藤代がしたように髪を立ててみようとするが、上手くいかない。
「思い切りましたね、保志さんが金髪にするとは。でも、その髪型は、ね。元がいいんだから、勿体無いですよ、それじゃあ。ま、切ったばかりだし、数日もすれば落ち着くんでしょうがね。
 それにしても、うちの店、何でもオッケイみたいですね。マスター、怒りませんでしたね。ほら、あの歳なら、そんな派手な色とか嫌うかなと思っていたんですけど。
 僕も色変えようかな。茶髪も飽きたし。保志さんは金髪似合ってますよね。僕も以前そんな感じの色にした事があるんですが、全然イケてなかったんで、直ぐに別の色にしたんですよ。薄い色は難しいですよね」
 ロッカールームで二人、僕相手に一方的に喋る事に慣れた少年の言葉に耳を傾けながら、僕は鏡の中の自分と向き合う。金髪が似合っているのかどうかはわからないが、まだ自分でも鏡を見てふと驚く事があるので、あまり良いものではない。
 着替え終わった少年が、僕の隣に並ぶ。彼は器用に自分の髪をセットした後、「いいですか?」と僕の頭に手を伸ばしてきた。いい加減飽きてきたので、僕は側のパイプ椅子を引き寄せて腰を降ろす。
 シュワワとスプレーから手に泡を取り出し、髪を梳かれる。まるで犬か猫の気分だ。
「ホント、短くしましたね。…ほら、立ち上げるよりも、こうした方が保志さんには似合いますよ」
 髪全体を前に流したその髪型は、少年が数度髪を梳くだけで出来上がった。藤代のように凝ったものではなく、簡単なものだ。これなら僕にも出来るだろうが、今まで何も手入れをしていなかった事を考えると、それでも面倒だ。
 美大生のバイトである小林少年に礼を伝えると、「今度染める時は、青にして下さいよ」と笑った。余程僕の変わりようが受けたのか、ここぞとばかりにからかっているのか。判断しきれないそれに、僕は肩を竦めた。



 いつも通りに仕事をこなしながらも、気付けば僕は昨夜の事を考えていた。
 軽率な行為だったと、今なら言える。
 あの時は、佐久間さんも、天川も、ましてあの男・筑波直純本人の事さえ考える余裕をなくし、僕は気付かなかった。だが、今なら、馬鹿な事をしたものだと思う。
 沸きあがった熱を処理する方法を、僕はあの時あの男にしか見つけられず、ただそれに手を伸ばした。だが今にして思えば、それはただの餓鬼の行動だ。性に興味を持ち、初めて女を抱き、その行為に溺れる青臭い思春期の少年と何ら変わりがないのだろう。
 そう、年齢を重ね自分を冷静に分析出来る分だけ情けないというものだ。
 若さゆえの衝動とは違い、僕にはもっと考えなければならない事があったというのに、本当に馬鹿な事をしてしまったものだ。
 よりにもよって、何故、筑波直純に欲情してしまったのか。自分の全てを疑いたくなる。

 季節柄いつも以上に込んでいる店を見渡し、僕はフロアーに背中を向け、大きな溜息を落とした。それを、忙しいゆえの疲れととったのか、同僚が擦れ違い様僕の肩を叩き笑う。
 相手に軽く頷きで応え、入ってきた注文の酒を用意しながら、僕はまた、今度は小さく息を落とす。

 昨夜の行為そのものには、別に何の思いもない。処女を捧げた女でもないので、初めての行為の感想など、特にない。ただ、今までそういう気になることがなかったのが、突然男に欲情し、体を重ねたということに対しては、何故そんな事をと思いはする。
 だがそれも、僕も男なのだからその衝動が皆無ではなかったという、そんな事実が浮かぶだけの事。淡泊だと思っていたのは間違いではなく、かといって全く性欲がなかったというわけでも、それに嫌悪を感じていたわけでもないということが、これで証明されただけのこと。
 昔から体の関係に興味がなかった。いや、それ以前に、愛だの恋だのそんな甘い思いを抱いた事さえない。
 そんな自分が、あまりにもらしくないことを、急かされる心のまま深く考えずにしてしまった。それが、今、一番僕を動揺させているのだろう。
 熱が冷めた後で交わしたくちづけに、意味を見出そうと頭を悩ませはしたが、見えるものなど何もなかった。あの男にすれば、大したことではなかったのだろう。そう、慣れていない僕だからこそ考えてしまったが、体を重ねた相手だ、今更キスの一つや二つに意味などないのだ。
 だが、男にとっては何てことはない行為でも、僕にとっては自分の軽率さを知らしめるものだった。あのキスは。
 男との行為に、後悔はない。過ぎてしまったのは仕方がないと思えるもので、単なる一夜限りのものなのだから、それ以上でも以下でもない。その事実があっただけに過ぎない。
 しかし、そんな事をした自分は、例え過去の自分だろうと、本物の自分な訳で…。
 僕は、そんな僕自身に、苛立つのだ。


――自分の事を、全てわかっている奴なんていない。俺もそうだよ。だから、時々…自分がとてつもなく怖くなるんだ。

 精神的に追い詰められていたあの時の友人の言葉が、今、漸くわかった気がした。

 僕は、男の強い目に、男自身に脅えているのではないのかもしれない。
 もしかしたら、僕は、自分に脅えているのかもしれない。
 男の目に映る、自分の姿に。

2003/05/11
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